うが霞《かすみ》でもかかったようにボンヤリしてきた。庭のほうから涼しい風がたえず吹きこんで来て、思わずウトウトとなる。手紙のことなどは、もうどうでもよくなる。意識のずっと向うへ押しやられて、朦朧《もうろう》とぼやける。良心も、キャラコさんも、いっしょになって、うつらうつらしはじめる。
「ほんとうに、よく食べておくれだったね。……でも、こんなじゃ、お嫁に行ったらどうするだろう。それが、心配だ」
 母堂がこんなことをいっているのが、ぼんやりと耳にひびいてくる。
 キャラコさんは、ニヤリと笑って見せる。ものをいう元気などない。そうするのが、せい一杯のところである。瞼《まぶた》がだんだん重くなって来て、とろけるように眠い。
 母堂が、また、何かいっている。
「さあ、メロンをお喰《あが》り。……まだ、すこし若いかも知れないが」
 メロン……、メロン……。いったい、メロンって何《な》んのことだっけ?
「……おいおい、眠るつもりなのかい。寝るなら寝てもいいけど、喰べてすぐじゃ毒だよ。……離屋《はなれ》の悦二郎の書斎へでも行って見なさい。懸巣《かけす》がいてね、それが、よく馴れて面白いことをする……光るものを投げてやると、嘴《くちばし》でヒョイと受けるよ」
 離屋《はなれ》の書斎!
 いっぺんに眼がさめた。
(そうそう、たいへんなことがあるんだった!)
 キャラコさんの背筋を、また、こそばゆいものが上ったり下ったりしはじめる。
 いままでの呑気《のんき》な気持がどこかへ消し飛んで、日暮れがたのような滅入《めい》った気持になる。足元から絶えず風に吹きあげられているような、なんとも手頼《たよ》りない感じである。
(こんな具合ではしようがない。どうせ、やるにはやるけど、まだ、はっきりした決心がついていないようだわ。やはり、それまで、待たなくては……)
 キャラコさんは、あわてて異議をとなえる。
「でも、おるすにはいり込んだりしてはいけないでしょう。あとで叱《しか》られそうだわ」
 母堂は、はッはと、笑い出して、
「あの、のんき坊主が、なんで、そんなことを気にするものですか。面白いから、行って見ていらっしゃいよ」
 キャラコさんが、蚊の鳴くような声で、いう。
「今でなくては、いけませんの」
 マジマジと、キャラコさんの顔を瞶《みつ》めて、
「なんて、情けない声を出すの。ゴシャゴシャいってないで、すこし運動していらっしゃい。……さァ、立ったり、立ったり……」
 キャラコさんが、あきらめてシオシオと立ちあがる。
「まいりますわ。……でも、おばさま、一緒に行ってくださるでしょう」
 母堂は、ぷッと噴《ふ》きだして、
「いやだ、このひとは。ひとりじゃ、こわいのかい。……ほんとうに、どうかしているよ、今日は。……よしよし、じゃア、一緒に行ってあげよう」
 なんとなく、脚《あし》がふらつくところへもってきて、庭下駄の鼻緒《はなお》がうまく足の指にはさまらないので、キャラコさんは時々よろめく。首を垂れて、いわば、屠所《としょ》の羊といったぐあいにトボトボとついてゆく。
 さっきは雲煙万里だと思っていたのに、こんどはいやに近い。ものの二十歩も歩いたと思ったら、もう離屋《はなれ》の玄関へ行きついてしまった。
 式台の端の花|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《い》けに昼顔が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]けてある。水をやらないものだから、花が、みな、のたりと首を垂れている。
「おや、おや、せっかく※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]けてやっても、これだから……」
 遠くから庭下駄の音が近づいて来た。玄関から女中が顔をだす。
「ああ、そうか。よし、よし、すぐゆく」
 キャラコさんのほうへ振り返って、
「いますぐ来ますから、あなた、ひとりで入っていてちょうだい。税務署からひとが来たから……」
 そういい捨てて、女中と二人で母屋《おもや》のほうへ行ってしまった。
 キャラコさんが、書斎の入口に立つ。息づまるような瞬間がきた。
 書斎のなかは、妙にしんとしずまりかえり、時々、かすかに小鳥の翔《かけり》の音がきこえるほか、なんの物音もひびいて来ない。
 数寄屋《すきや》づくりの檐《のき》の深い建物なので、日射しは座敷の中まで届かない。窓のそとは、くゎッと明るくて、樹々《きぎ》の葉も、庭土《にわつち》も、白く燃えあがっているのに、部屋の隅々はおんどりとうす暗くていろいろな家具が、畳の上によろめくような翳《かげ》を落している。なんとなく妖《あや》しげで、これから犯罪が行なわれようとするのに、うってつけの場面である。
 大きな本棚の中で本が立ったり寝ころんだりし、鳥箱や、鳥籠や、雀の巣などが雑然と載《の》っている。その横に、ニスの剥《は》げた大きな書机《デスク》が、こちらへズラリと抽斗《ひきだし》の列を見せて、ゆったりと坐っている。
 一瞥しただけで、急に胸がドキドキしはじめる。克服してやろうと思って、せい一杯に息を吸いこむ。ところが、なかなか深呼吸ぐらいでは追いつかない。
(あたしは、いま、落ち着こうとしてるんだわ)
 そう思った瞬間、自分の沈着にたいする日ごろの自信がドッとばかりに崩れ落ちて、まるで復讐でもするように、胸のドキドキが一層ひどくなる
 ベートーヴェンの運命交響楽、『忍びよる運命の跫音《あしおと》』といった工合に、鼓動のチンパニが重苦しいリズムに乗って、急調《アレグロ》から急速調《ブレスト》に、弱音《ピアノ》から最強音《フォルテッシモ》へと発展する。
 心臓ばかりではない。ドキンドキンはいたるところにある。こめかみにも、手|頸《くび》にも、足の爪先にもある。身体じゅうのいたるところで、調子をそろえてドキンドキンとやる。
 なんであろうと、いよいよ決心しなければならない時が来た。キャラコさんは、額に皺をよせ、ギュッと唇を噛んで書机《デスク》を睨みつける。
 書机《デスク》は、わずか五六歩ばかり離れたところにある。青羅紗《あおらしゃ》の上で、小さな紙きれが風に吹かれてヒラヒラしている。それが、さあ、やっておいで、わけはないじゃないか、と誘いかけているように思われる。そこまで歩いて行って、抽斗《ひきだし》の中の手紙を盗みだすぐらいのことは、いかにも一|挙手《きょしゅ》一|投足《とうそく》のわざである。
(盗む……)
 この言葉が、とつぜん異様な重苦しさで胸をしめつける。
 耳のそばで、こんな声がきこえる。
(お前は、いま、飛んでもないことをやらかそうとしているんだぞ!)
 キャラコさんの背筋を、ゾッとするような冷たいものが走りすぎる。
 じぶんは、今日以後、一度も心にはじることをしたことがなかった、という、嬉しい感情を味わうことはできない。
(あたしは、いちど、ひとのものを盗んだことがある!)
 この、忌わしい、情けない記憶は、今後、終生心にまつわりついて、じぶんを責め立てるだろう。明日《あす》からの朝の寝覚めは、もう、清々《すがすが》しさを失うであろう。
 キャラコさんは息苦しくなって、両手で喉をつかむ。心の中で、灼《や》けつくように、ねがう。
(早く、誰か入って来てくれればいい)
 ところで、耳をすまして見ても、誰もこっちへやってくるらしい気配はない。庭にも母屋にも、人声ひとつきこえず、森閑とひそまりかえっている。このしずけさがキャラコさんの心を竦《すく》みあがらせる。とうとう、どたん場へ押しつめられてしまった。
 一人のキャラコさんが、さいそくする。
 ――早くやっつけろ、どっちみち、やらなければならないんだ。
 べつのキャラコさんが、こたえる。
 ――どういう動機で動いていいかわからないわ。
 ――動機もくそもあるもんか。ひと足《あし》踏み出しさえすれば、あとは自然にうまくゆく。
 キャラコさんは、渋々承知する。死んだ気になって、ひと足|書机《デスク》のほうへ踏み出す。案外、わけはない。
 一歩、二歩、三歩……。
 いわゆる、忍び足というやつで、猫のように、虫のように、そろりそろりと這ってゆく。
 ようやく、書机《デスク》に行きつく。
 キャラコさんが、元気のない声で、つぶやく。
「とうとう、やって来た」
 書机《デスク》は、すぐ眼の前に、手を伸ばせば届くところにある。
 ところで、それは書机《デスク》なんてものじゃない。まるで、城のように、絶壁のようにそそり立って、冷然とキャラコさんを見おろしている。抽斗《ひきだし》は、みな、キュッと口を結んで触《さわ》りでしたらただではすまさないぞ、というふうに意地の悪い眼をむいている。
 キャラコさんは、ムッとする。敵愾《てきがい》心を起す。
(やろうと思えば、こんなことぐらいわけなくやれてよ)
 思い切って手を伸ばす。右の、上から二番目の抽斗《ひきだし》に指先が触れる。チカッと、火傷《やけど》をしたような痛みを覚える。指が抽斗の曳手《ひきて》にかかる……
 その瞬間、なにか形容し難い戦慄が、電光のように頭のてっぺんから爪先まで差しつらぬいた。
 自分のうしろで、なにか、物に触れ合うような異様な気配を感じた。キャラコさんは、ぎょッとして、ふりかえる。
 この部屋の中に何かいる!
 もの静かな息づかいをしながら、微妙に動き廻っているものがある。
 気のせいではない。何か模糊《もこ》としたものが、まじろぎもせずに、じぶんを瞶《みつ》めている。
 キャラコさんは、不安な眼差しで部屋の中を見廻したが、なにものも見当らない。寒々《さむざむ》とした気持になって、夢中で部屋の中を探し廻る。ふと、壁ぎわの寝台の下を覗《のぞ》くと、その下闇《したやみ》の中に、燐のようなものが二つ蒼白い炎をあげている。
 お雪さんというペルシャ猫だった。
 キャラコさんは、ホッとして、額の汗を拭く。
「おやおや、お雪さんだったの? 遊んであげたいけど、いま、ちょっとご用があるから、しばらく戸外《そと》へ出ていてちょうだい。……あなたに、見ていられると、あたし、困るの」
 猫を抱きあげて窓から庭へおろしてやる。
 お雪さんは、お愛想に、ザラリとした舌でキャラコさんの手の甲を舐《な》めてから、足を振りながらゆっくりと母屋のほうへ歩いて行ってしまった。
 これで、邪魔物はいなくなった。いよいよ、とりかかる番だ。
 書机《デスク》をギュッと睨《にら》みすえたまま、また、ゆっくりゆっくりそのほうへ歩いてゆく。こんどは、さっきよりも楽にゆく。
 べつのキャラコさんが、宣言する。
 ――いよいよ、やります。
 もう一人のキャラコさんが、はねかえす。
 ――いわなくともわかっている。早くやれ。
 ――いまやりかけている。あまり急《せ》かせないでちょうだい。……ほら、もう、曳手《ひきて》に手がかかった。
 ――グイと曳《ひ》いちまえ!
 ――ひきました。……ほら、開《あ》いた。
 二寸ほどあいた抽斗《ひきだし》の口から、何か白いものがチラと見える。キャラコさんは、眼が眩《くら》んで書机《デスク》のほうへ倒れかかった。
 サヤサヤという羽音《はおと》といっしょに、一羽の小鳥が窓から飛び込んできて、書机《デスク》のそばの止まり木にとまった。背中が葡萄色で、翼《つばさ》に黒と白の横縞《よこじま》のある美しい懸巣《かけす》である。
 しばらくじっとしていたが、とつぜん、キャラコさんの頭をめがけて突進してきて、翼でちょっと払っては、また、止り木へ戻ってゆく。いくども、こんな動作をくりかえす。
 キャラコさんが、かけすを瞶《みつ》めているうちは、止り木の上でじっとしているが、眼を外《そら》したり、うつむいて抽斗に手をかけたりすると、頭を眼がけて烈《はげ》しく突進してくる。
 はじめ、キャラコさんは、見知らない人間が書机《デスク》などをいじっているので、腹を立てたのだろうと思ったが、間もなく、かけすはじぶんと遊びたいのだということを了解した。
 キャラコさんは、う
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