、大切な思い出の一束をもぎ取ってくる自信はなかった。キャラコさんは、正直に自白した。
「できそうもないわ。……でも、盗みだすなんてことは……」
緋娑子さんは、グイと頭をうしろに引いて、威《おど》しつけるような声で、いった。
「四《し》の五《ご》のいう必要はないでしょう。あなたの近親のために、むかしの友達が迷惑をしているとしたら、それくらいのことをやってくださるのが当然よ。……手紙はね、書斎の書机《デスク》の向って右の上から二番目の抽斗《ひきだし》の中に空色のリボンでくくって入っています。鍵はかかっていませんわ。……ねえ、やってくださるでしょう、キャラコさん。さもないと、あたし終生あなたを軽蔑してよ」
キャラコさんは、すこし腹が立ってきた。こういう無意味な強制に屈服することはないのだが、相手をしているのがめんどうくさくなって、はっきりとうなずいた。
「やって見ますわ」
そして、心の中で、こんなふうに、つぶやいた。
(悦二郎氏にしたって、こんなくだらないひとの手紙なんか大切《だいじ》にとっとくことはないわ!)
二
たしかに葉山《はやま》にいらっしてるはずだと思って、安心してやって来たのに、
「ちょうど、きのう、お帰りになりまして……」
と、小間使いが、いう。
困ったことになったと思ったが、もう、引きかえすわけにはゆかなかった。
御母堂《ごぼどう》が、恰幅《かっぷく》のいい、大きな身体をゆするようにして、
「まあまあ」
と、叫びながら玄関へ走り出してきた。
「……、これは、ようこそ。珍らしいひとがひょっくりやって来たもんだ」
「おばさま、いつも、ご機嫌よくて」
御母堂は、顔じゅう笑みをくずして、
「うむうむ、挨拶などは、どうでもいい」
手をとらんばかりにして、
「さァさァ、どうかあがってちょうだい。……ご無沙汰ばかりしていますが、みなさん、おかわりはないの?……うむ、それはよかった。……きのう帰って来たとこでね、ちょうどいい折りだった」
上機嫌に、なにもかもいっしょくたに、ひとりでうけ答えしながら、庭に向いた風とおしのいい夏《なつ》座敷へ通すと、せっかちに手を鳴らして、
「おいおい、誰かいないのかい。早く、おしぼりを持っておいで」
走りこんできた女中に何かいいつける間《ま》も惜しそうに、
「葛子《くずこ》が帰って来たら、嬉《うれ》しがって、また、暴れまくるこッたろう。……ほんとうに、こんな暑い日に、よくやって来ておくれだった。……なんだろう、きょうは、ゆっくりして行っていいのだろう」
「ええ、べつに用事ではなかったのですけど……」
胸の中に臆心《おくしん》があるので、いつものようなのんきな調子が出て来ない。
「あの……、あまり、ごぶさたしましたから、……きょうは、ちょっと、お顔を見におうかがいしましたの」
相手がなんともいわないのに、あわてて、じぶんから、
「ほんとうよ」
と、つけ足して、心の中で赤面した。
もちろん、疑うようすなどはなく、ほくほくと眼を無《な》くして、
「そうかい、そうかい。どうか、ゆっくりしていってちょうだい」
女中たちが廊下の端に固まって、なにかコソコソいってるのへ聴耳《ききみみ》を立てて、
「こらこら、なんだい、そんなところでコソコソと……。どうも、躾《しつけ》の悪い家でねえ、あんなところで垣のぞきをしている。……なにしろ、この家じゃ、あなたの評判がたいへんなんだから、新しく来た女中どもがあなたを見たがって、それで、あんなことをしてるのさ。まあまあ、すこし見物させてやんなさい」
その自慢らしい顔といったらないのである。
キャラコさんが、なにより懼《おそ》れていたのは、母堂のこの底知れない愛情だった。
古い旗本《はたもと》の家で、ずっと濶達《かったつ》なくらしをして来たせいで、六十を越えたこの年になっても、相変らず、派手で大まかで、元気いっぱいに、男のような口調でものをいう。
キャラコさんは、小さな時から、気さくで太っ腹な、この大叔母がだいすきだった。
浜子夫人のほうも、寛大で謙譲《ひかえめ》で、そのくせ、どこは硬骨《ほね》のあるこのキャラコさんが大々《だいだい》のひいきで、進級祝いなどには、あッと眼を見はるような豪勢な祝品《いわいもの》をかつぎ込んだりする。
いったん、キャラコさんのことになると、すっかり夢中になって、とろとろととろけてしまう。自慢で自慢でしようがなくて、行く先々で、精いっぱいに吹聴する。
「うちの馬鹿どもとちがって、剛子《つよこ》はほんとうにりっぱな娘です。あたしゃ、ほんとうに日本一だくらいに思っているんだ。夫人《おく》さん、あなたの前だけど……」
そのひとの家へ、今日自分が、何をしに来たかとかんがえると、キャラコさんは、すこし情けなくなる。
留守でさえあってくれたら、多少、良心の呵責が軽くてすんだろうに、まるで舐《な》めずりたいというように、ニコニコとじぶんを眺めている慈愛深い母堂の眼に出逢うと、手も足も出ないような気持になる。
せめて、放って置いてでもくれたらと思うのに、あれこれと気を揉《も》んで、いっしょうけんめいに世話をやく。
「そうそう、首のとこなんかも、よく拭きなさい。……いっそ、服なんかひ※[#小書き片仮名ン、235−下−1]脱いでおしまいな」
「それじゃ、裸になってしまいますわ」
「裸になったっていいじゃないか。よその家じゃあるまいし」
何を思い出したか、急に膝を打って、
「そうそう、まだ、話さなかったね、そら、このお正月。……れいの遺産相続の騒ぎのとき。……あたしゃ、じぶんで玄関にがんばっていて、ひとりずつ新聞屋を追っ払ったんだよ。……もちろん、写真もあれば、居どころも知っているが、新聞などでワイワイ騒がれちゃあの娘の身上に瑕《きず》がつく。そうまでして、お前さんたちに義理だてするいんねんはない※[#小書き片仮名ン、235−下−12]だから、まごまごしないで、とッとと帰っておくれって、ね……」
そういって、その時のようすが見えるような真剣な顔つきをする。見ていられなくなって、キャラコさんは、思わず眼をつぶった。
(おばさま、ごめんなさい……)
恥と、すまなさの感情で、もうすこしで、何もかも打ちあけてしまうところだった。
でも、それでは、悦二郎氏が隠しておきたいことを犠牲にして、自分だけがいい児《こ》になる結果になると思いついて、危ないところで踏み止どまったが、良心のほうは、一向楽にならなかった。それどころか、これで、はっきりと共犯のかたちになり、いっそう、抜きさしのならない羽目に落ち込むことになった。
キャラコさんは、うんざりする。すっかり参ってしまって、ものをいう元気もなくなった。ぼんやりと、こんなことをいって見る。
「悦二郎さんは、お留守?」
母堂は、大袈裟にうなずいて、
「ああ、ああ、あれは、相変らずさ。……善福寺《ぜんぷくじ》の池へ珍らしい鳥が来たといって、けさ早くから井荻《いおぎ》へ出かけて行った。正午《ひる》までに帰るといっていたが、どうして、なかなか。……れいの通り、小鳥と遊びはじめて、時間なんて忘れてしまったんだろう」
思いついたように、
「正午《ひる》といえば、あなた、午食《ひる》はまだなんだろう? ……さて、なにを、ご馳走しようか。昨日《きのう》帰ったばかりだから、碌《ろく》なこともできまいけど……」
どう饗応《もてな》そうかと焦《あせ》るように、しきりに首をひねってから、
「そうそう、いいものがある。信州から風味なものが届いているから、あれをご馳走しよう。待っていてちょうだい、すぐだから」
キャラコさんは、閉口して、手を合わせんばかりに、
「おばさま、もう、どうぞ。……あたしなら、結構ですから」
「おや、生意気。……お辞退《じぎ》をすることを覚えたのかい。……まあ、ちょっと、待っていなさい」
そういって、身体をゆすりながら、小走りに勝手のほうへ行ってしまった。
キャラコさんの身近で、なにか、たいへんなことが始まりかけている。この邸《やしき》の中の空気がただならぬ動揺をはじめた。
この座敷は母堂の居間で、お勝手に近いので、忙《せわ》しく指図《さしず》をしている母堂の声や、それに答える女中たちの声、あわただしく走り廻る足音や、何か重いものをドスンと落す音、賑《にぎ》やかな笑い声やシュウ、シュウ水を流す音などが雑然といり交ってここまで響いてくる。
キャラコさんは、物怯《ものおじ》したような顔で、広い座敷の真ん中にぽつねんと坐っている。靴下をへだてて藺草《いぐさ》の座布団の冷たさがひやりと膚に迫る。それがまた、なんとなく落ち着かない思いをさせる。
床《とこ》の間《ま》に、瓢斎《ひょうさい》の竹籠に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《い》けた黄色い夏《なつ》薔薇がある。
小さな声で、
「まあ、きれいだこと」
と、いって見る。
ところで、キャラコさんの本心は、綺麗だともなんとも思っているわけではない。視線はたしかに薔薇の上をうろついているが、心はただひとつのことばかり考えている。自分の手が書机《デスク》の抽斗《ひきだし》にかかる気の遠くなるような瞬間のことを。
ムズムズする感覚や、えたいの知れないこそばゆさが、背筋を這《は》い廻ったり、喉の奥を締めつけたりする。知らない野道で日が暮れたような、この広い世界でたったひとりぼっちになってしまったような、なんとも手頼《たより》ない気持である。途中の電車の中のような元気はどうしても湧いて来ない。
人間には、誰でも一度はこんな助からない気持になることがあるものだ。なんということはないが、身体じゅうから力がぬけて、手も足も出ないような工合になってしまう。いまのキャラコさんが、ちょうど、それである。
ここへ来るまでは、わけのないことのようにかんがえていたが、さて、いよいよ乗り込んで来て見ると、どうして、どうして、わけなしだなんてわけには行かない。庭下駄《にわげた》をはいて、三十歩も歩けば行かれる離屋《はなれ》の書斎が、雲煙万里《うんえんばんり》の向うにあるような気がする。ちょっと駆け出して行けば、ものの三分ぐらいですんでしまうことなのに、なんとも億劫《おっくう》で、どうしても腰をあげる気にはなれない。腰どころではない。眼さえも庭のほうへは向きたがらない。なるだけ、そのほうを見ないようにしている。
もう一人のキャラコさんが、焦《じ》れったがって、さいそくする。
――さァ、今がチャンスだ。早く行きなさい。
べつのキャラコさんが、弱々しい声で、こたえる。
――もうすこし、あとで。
もう一人のキャラコさんが、舌打ちする。
――あとなんていってると、チャンスをなくしてしまうぞ。おばさまが帰って来ないうちに、早くやっつけろ!
べつのキャラコさんが、いやいや、をする。
――そんなふうに、コソコソやるのは、いや。
――コソコソでなければ、どんなふうにやるつもりだ?
――もっと、堂々とやる。
もう一人のキャラコさんが、とうとう癇癪をおこす。
――くだらないことをいうな。そんなことをいって、結局やらないつもりじゃないのか?
べつのキャラコさんが、情けない声を、だす。
――やるにはやるけれど、いま、気が乗らないから、いや。
――じゃ、いつになったら、やるつもりだ。
――御飯を食べてから。
せめて、母堂でもいてくれれば助かると思うのに、なかなか戻って来ない。何をしてるのかと思ってお勝手へ行って見ると、母堂は両肌脱《もろはだぬ》ぎになって、一生懸命に蕎麦《そば》を打っていた。
キャラコさんは、やるせなくなって、壁にもたれて眼をつぶった。
三
何ものも、母堂の上機嫌を損《そこな》うものがなかった。
いわんや、キャラコさんは、むやみに食べる。最後の一杯などは、もう、死んでもいいと思って、喉の奥へ送り込んだ。
あまりたくさん詰め込んだので、頭の奥のほ
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