誰でも一度はこんな助からない気持になることがあるものだ。なんということはないが、身体じゅうから力がぬけて、手も足も出ないような工合になってしまう。いまのキャラコさんが、ちょうど、それである。
ここへ来るまでは、わけのないことのようにかんがえていたが、さて、いよいよ乗り込んで来て見ると、どうして、どうして、わけなしだなんてわけには行かない。庭下駄《にわげた》をはいて、三十歩も歩けば行かれる離屋《はなれ》の書斎が、雲煙万里《うんえんばんり》の向うにあるような気がする。ちょっと駆け出して行けば、ものの三分ぐらいですんでしまうことなのに、なんとも億劫《おっくう》で、どうしても腰をあげる気にはなれない。腰どころではない。眼さえも庭のほうへは向きたがらない。なるだけ、そのほうを見ないようにしている。
もう一人のキャラコさんが、焦《じ》れったがって、さいそくする。
――さァ、今がチャンスだ。早く行きなさい。
べつのキャラコさんが、弱々しい声で、こたえる。
――もうすこし、あとで。
もう一人のキャラコさんが、舌打ちする。
――あとなんていってると、チャンスをなくしてしまうぞ。おばさまが帰
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