鳥籠や、雀の巣などが雑然と載《の》っている。その横に、ニスの剥《は》げた大きな書机《デスク》が、こちらへズラリと抽斗《ひきだし》の列を見せて、ゆったりと坐っている。
 一瞥しただけで、急に胸がドキドキしはじめる。克服してやろうと思って、せい一杯に息を吸いこむ。ところが、なかなか深呼吸ぐらいでは追いつかない。
(あたしは、いま、落ち着こうとしてるんだわ)
 そう思った瞬間、自分の沈着にたいする日ごろの自信がドッとばかりに崩れ落ちて、まるで復讐でもするように、胸のドキドキが一層ひどくなる
 ベートーヴェンの運命交響楽、『忍びよる運命の跫音《あしおと》』といった工合に、鼓動のチンパニが重苦しいリズムに乗って、急調《アレグロ》から急速調《ブレスト》に、弱音《ピアノ》から最強音《フォルテッシモ》へと発展する。
 心臓ばかりではない。ドキンドキンはいたるところにある。こめかみにも、手|頸《くび》にも、足の爪先にもある。身体じゅうのいたるところで、調子をそろえてドキンドキンとやる。
 なんであろうと、いよいよ決心しなければならない時が来た。キャラコさんは、額に皺をよせ、ギュッと唇を噛んで書机《デスク》を睨みつける。
 書机《デスク》は、わずか五六歩ばかり離れたところにある。青羅紗《あおらしゃ》の上で、小さな紙きれが風に吹かれてヒラヒラしている。それが、さあ、やっておいで、わけはないじゃないか、と誘いかけているように思われる。そこまで歩いて行って、抽斗《ひきだし》の中の手紙を盗みだすぐらいのことは、いかにも一|挙手《きょしゅ》一|投足《とうそく》のわざである。
(盗む……)
 この言葉が、とつぜん異様な重苦しさで胸をしめつける。
 耳のそばで、こんな声がきこえる。
(お前は、いま、飛んでもないことをやらかそうとしているんだぞ!)
 キャラコさんの背筋を、ゾッとするような冷たいものが走りすぎる。
 じぶんは、今日以後、一度も心にはじることをしたことがなかった、という、嬉しい感情を味わうことはできない。
(あたしは、いちど、ひとのものを盗んだことがある!)
 この、忌わしい、情けない記憶は、今後、終生心にまつわりついて、じぶんを責め立てるだろう。明日《あす》からの朝の寝覚めは、もう、清々《すがすが》しさを失うであろう。
 キャラコさんは息苦しくなって、両手で喉をつかむ。心の中で、灼《や
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