誰でも一度はこんな助からない気持になることがあるものだ。なんということはないが、身体じゅうから力がぬけて、手も足も出ないような工合になってしまう。いまのキャラコさんが、ちょうど、それである。
 ここへ来るまでは、わけのないことのようにかんがえていたが、さて、いよいよ乗り込んで来て見ると、どうして、どうして、わけなしだなんてわけには行かない。庭下駄《にわげた》をはいて、三十歩も歩けば行かれる離屋《はなれ》の書斎が、雲煙万里《うんえんばんり》の向うにあるような気がする。ちょっと駆け出して行けば、ものの三分ぐらいですんでしまうことなのに、なんとも億劫《おっくう》で、どうしても腰をあげる気にはなれない。腰どころではない。眼さえも庭のほうへは向きたがらない。なるだけ、そのほうを見ないようにしている。
 もう一人のキャラコさんが、焦《じ》れったがって、さいそくする。
 ――さァ、今がチャンスだ。早く行きなさい。
 べつのキャラコさんが、弱々しい声で、こたえる。
 ――もうすこし、あとで。
 もう一人のキャラコさんが、舌打ちする。
 ――あとなんていってると、チャンスをなくしてしまうぞ。おばさまが帰って来ないうちに、早くやっつけろ!
 べつのキャラコさんが、いやいや、をする。
 ――そんなふうに、コソコソやるのは、いや。
 ――コソコソでなければ、どんなふうにやるつもりだ?
 ――もっと、堂々とやる。
 もう一人のキャラコさんが、とうとう癇癪をおこす。
 ――くだらないことをいうな。そんなことをいって、結局やらないつもりじゃないのか?
 べつのキャラコさんが、情けない声を、だす。
 ――やるにはやるけれど、いま、気が乗らないから、いや。
 ――じゃ、いつになったら、やるつもりだ。
 ――御飯を食べてから。
 せめて、母堂でもいてくれれば助かると思うのに、なかなか戻って来ない。何をしてるのかと思ってお勝手へ行って見ると、母堂は両肌脱《もろはだぬ》ぎになって、一生懸命に蕎麦《そば》を打っていた。
 キャラコさんは、やるせなくなって、壁にもたれて眼をつぶった。

     三
 何ものも、母堂の上機嫌を損《そこな》うものがなかった。
 いわんや、キャラコさんは、むやみに食べる。最後の一杯などは、もう、死んでもいいと思って、喉の奥へ送り込んだ。
 あまりたくさん詰め込んだので、頭の奥のほ
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