正午《ひる》といえば、あなた、午食《ひる》はまだなんだろう? ……さて、なにを、ご馳走しようか。昨日《きのう》帰ったばかりだから、碌《ろく》なこともできまいけど……」
 どう饗応《もてな》そうかと焦《あせ》るように、しきりに首をひねってから、
「そうそう、いいものがある。信州から風味なものが届いているから、あれをご馳走しよう。待っていてちょうだい、すぐだから」
 キャラコさんは、閉口して、手を合わせんばかりに、
「おばさま、もう、どうぞ。……あたしなら、結構ですから」
「おや、生意気。……お辞退《じぎ》をすることを覚えたのかい。……まあ、ちょっと、待っていなさい」
 そういって、身体をゆすりながら、小走りに勝手のほうへ行ってしまった。
 キャラコさんの身近で、なにか、たいへんなことが始まりかけている。この邸《やしき》の中の空気がただならぬ動揺をはじめた。
 この座敷は母堂の居間で、お勝手に近いので、忙《せわ》しく指図《さしず》をしている母堂の声や、それに答える女中たちの声、あわただしく走り廻る足音や、何か重いものをドスンと落す音、賑《にぎ》やかな笑い声やシュウ、シュウ水を流す音などが雑然といり交ってここまで響いてくる。
 キャラコさんは、物怯《ものおじ》したような顔で、広い座敷の真ん中にぽつねんと坐っている。靴下をへだてて藺草《いぐさ》の座布団の冷たさがひやりと膚に迫る。それがまた、なんとなく落ち着かない思いをさせる。
 床《とこ》の間《ま》に、瓢斎《ひょうさい》の竹籠に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《い》けた黄色い夏《なつ》薔薇がある。
 小さな声で、
「まあ、きれいだこと」
 と、いって見る。
 ところで、キャラコさんの本心は、綺麗だともなんとも思っているわけではない。視線はたしかに薔薇の上をうろついているが、心はただひとつのことばかり考えている。自分の手が書机《デスク》の抽斗《ひきだし》にかかる気の遠くなるような瞬間のことを。
 ムズムズする感覚や、えたいの知れないこそばゆさが、背筋を這《は》い廻ったり、喉の奥を締めつけたりする。知らない野道で日が暮れたような、この広い世界でたったひとりぼっちになってしまったような、なんとも手頼《たより》ない気持である。途中の電車の中のような元気はどうしても湧いて来ない。
 人間には、
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