、手っとり早い」
キャラコさんは、手紙を受け取るとぐっと、息をつめながら封を切った。一字一字を、どんなに骨折って書いたのだろう。ペンの先が、ところどころ、紙の裏まで突きぬけていた。
[#ここから3字下げ]
あたくしは、たぶん、不器用にやったのです。引き金のひきかたが下手だったので、弾丸《たま》は頭のうしろのほうへ喰い込んでしまいました。しかし、弾丸を抜き出すことはできませんし、心臓にもそろそろ異常が始まっています。もう、どうせ、そんなに長いことはないのでしょう。
あたくしが弱っていなかったら、あなたのところへ飛んで行きたい。別れたピエールのことやあたしの辛かった時期のことでなく、あたしの短い生涯のうちで、いちばんはっきりした、誰も奪うことのできない、それこそ、ただひとつの実在だったあの楽しい女学生時代のお話をするために……。
あたくしは、あふれるばかりの甘さとやさしさの夢に満ちていたあの時代のことを、まいにち、無垢な感動をもって思いかえしています。
けれど、あの後のあたくしの生活はあまりにみじめで、そして、辛すぎたので、自分自身が、そんな楽しい時代を経たことがあったとはどうしても信じられないのです。どうぞ、あわれだと思って、ちょうだい。
あたくしの枕元に坐って、それがほんとうにあったことだとあたくしに、しっかりといってきかせてください。あたくしは、追憶の清冽な水でこころを洗い、いつも、そうありたいと望んでいたように、しあわせな娘のように、死んで行きたいのです。……
[#ここで字下げ終わり]
七
ちょうど、生麦《なまむぎ》を通るころ、沛然《はいぜん》と豪雨が降り出した。
水しぶきが自動車のまわりを白く立ちこめる。暗澹《あんたん》とした夜の国道の上で気がちがったように雨と風が荒れ狂っていた。
保羅《ぽうる》はクッションにぐったりと背をもたせかけたままひとことも口をきかない。自分だけの物思いに深く沈潜しているようだった。
キャラコさんは、レエヌさんの手紙を膝のうえにひろげ、薄暗いドーム・ランプの光でいくどもいくども読みかえす。
「悲しいわ」
じぶんの楽しかった時代を信じることができないという悲しさは、いったい、どんなだろうとつくづくに思いやる。それは、いま死にかけている、不幸だったひとだけが感じうる、やるせない懐疑なのであろう。
キャラコさんは、それをそっくり理解することはできないが、悲しみの深さだけはわかるような気がする。こまごまと思いやるよりも、あわれさのほうが先に立って、つい、ほろりとしてしまうのだった。
卅分ほどののち、自動車は競馬場の柵のそばでとまった。夏草ばかり繁ったさびしいところで、右手の闇の中に、ポツリとひとつだけ灯《あかり》が見える。
保羅は、キャラコさんのほうを向くと、ブッキラ棒な調子で、
「あれです」
と、顎でそのほうを指した。
斜面についた細い坂道をのぼってゆくと、行きとまりの小さな雑木林の中にその建物が建っていた。闇の空で、屋根の風見《かざみ》がカラカラと気ぜわしく鳴っていた。
保羅が、門の前で大きな声で叫ぶと、すこし離れた別棟の小屋の戸があいて、提灯《ちょうちん》をさげた、六十ばかりの老爺《としより》がびっこをひきながら出て来て、ひどく大儀そうに門をあけた。漆にでもかぶれたらしく、顔いちめんを豆つぶのような腫物がおおっていた。
玄関へ入ると広い内椽《ベランダ》で、そこからすぐ二階へあがれるようになっている。半開きになった右手は客間《サロン》らしく、扉《ドア》の隙間からそれらしい調度が見えていた。
仏蘭西《フランス》瓦を置いた、木造のがっしりした建物だが、建ってからもう廿年以上にもなると見えて壁はところどころはげ落ち、どこもかしこも傷《いた》み、ひどいほこりだった。
保羅は、濡れた雨外套を着たままズンズン二階のほうへあがってゆく。キャラコさんは、濡れた靴を気にしながら、そのあとをついて行った。
保羅は、三つあるいちばん奥まった部屋の扉《ドア》をそっとあけて、その内部《なか》へキャラコさんを押しいれた。
雨の汚点《しみ》が、壁に異様な模様を描《か》いている。化粧台の鏡には大きな亀裂《ひび》がはいり、縁の欠けた白い陶器の洗面器の中に、死んだ蠅が一匹ころがっていた。
窓ガラスの上を、ひどい勢いで雨が流れおちる。とどろくような嵐の音。寝台の枕元の置電灯《スタンド》が、嵐がつのるたびに、あぶなっかしくスウッと暗くなる。
レエヌさんは、こんなわびしい風景の中で、一種孤独のようすで眼をつぶっていた。
片側からくるスタンドの光で、高い鼻のかげで頬のうえに奇妙な翳《かげ》をつくり、顔はびっくりするほど小さくなって、透きとおるような蒼白い手が、にぎる力もないように、ぐったりと側《わき》に垂れさがっていた。それでも、むかし、睡蓮《すいれん》の花のようだとよく思い思いした美しい俤《おもかげ》は、どこかにぼんやり残っていて、それだけに、いっそう、あわれ深かった。
傲慢《ごうまん》で、矜持《ほこり》の高い、レエヌさんの、このやつれ切ったようすを見ると、キャラコさんは、すこしばかり心の底に残っていた怒りや軽蔑の感情をすっかり忘れてしまった。胸がいっぱいになって、走るようにそのそばによると、鼻がつまったような声で、
「礼奴《れいぬ》さん」
と、ひくく呼んで見た。
レエヌさんは、ゆっくりと眼をひらくと、子供のように顔じゅう眼ばかりにしてまじまじとキャラコさんの顔をながめていたが、なんともいえぬ奇妙な微笑をうかべると、
「ああ、とうとう、いらしたのね」
と、つぶやくようにいった。
キャラコさんは、心からの和解の手を差しのべながら、
「ええ、あたしよ。……でも、思ったよりお元気そうで、うれしいわ」
レエヌさんは、
「ええ、どうも、ありがとう」
うわの空でいって、嘲笑するような口調で、
「ねえ、キャラコさん、あんた、とうとうやって来たわね」
と、もう一度くりかえした。
キャラコさんは、掌《てのひら》の中でレエヌの小さい手をしっかりとはさみとりながら、
「お手紙を見るとすぐに飛んで来たの……。ほんとに、飛ぶようにしてやって来たのよ、レエヌさん」
レエヌは、キャラコさんの手を払いのけると、瘠せた指で寝台の端をギュッと掴んで、けたたましい声で笑い出した。
「やあい、とうとう、ひっかかりやがった!」
(気がちがいかけているのかも知れない)
キャラコさんは、反射的に扉《ドア》のほうへふりかえったが、つい今まで立っていた保羅の姿はそこにはなかった。
いまにも吹き倒されるかと思うばかりに、ミリミリと家じゅうがきしみわたる。どこかで、風に煽られる鎧扉《よろいど》がバタンバタンと鳴りつづけ、それにまじって、階下《した》の扉口のほうで釘を打つような鋭い音がひびいてくる。
レエヌは、瘧《おこり》でも落ちたように、とつぜん笑いをやめ、眼を輝かしながらその音にききいっていたが、ゆっくりと枕の上で顔をまわして、キャラコさんのほうへ向きなおると、
「あなた、あの音、なんだか知っている? ……あれはね、保羅が、家じゅうの扉《ドア》や窓を釘づけにしている音なの。……キャラコさん、あなた、もうここから帰れないのよ」
と、叫び立てると、邪悪な喜びを隠し切れないといったふうに、また火のついたように笑いだした。
キャラコさんは、なだめるような口調で、いった。
「こんな嵐では、どっちみち、泊めていただくほかはないわ。……あれは、保羅さんが、鎧扉が飛ばないようになんかやっている音よ。おどかそうたってだめ」
レエヌは、ふん、とせせら笑うと、病人とは思えないようなドスのきいた声で、
「善人は善人らしいのんきなことをいってるわね。……おどかしなもんか、本当だイ。……要するに、あんたは、あたしたちの餌食になるのさ。べつに、どうってことはありゃしない」
キャラコさんは、あっけにとられて、
「ね、どうしたのよ、レエヌさん。……すると、自殺しそこねたというのは、嘘だったのね」
「ヘッ、ばか! ……あたいの頭をごらん。どうかなっているかい?」
まるで、手に負えないのだった。
「……では、あのお手紙も……」
レエヌは、ニヤリと笑って、
「あんな手紙、だれが本気で書くもんですか。小説の焼き直しよ。……ほら、これが種本《たねほん》さ」
といいながら、枕元から薄っぺらな仏蘭西《フランス》語の本をとりあげると、肩ごしにキャラコさんの膝の上に投げてよこした。
Marcel Proust "La confession d'une jeune fille"(マルセル・プルウスト『少女の懺悔《ざんげ》文』)という標題がついていた。最初の頁《ページ》のはじめのところに、乱暴にグイグイと赤鉛筆で線がひいてある。
キャラコさんが、たどりたどり読んで見ると、さっきの手紙と同じ書き出しがあった。
[#ここから3字下げ]
……ようやく、解放の時が近づきつつあります。あたくしは、たぶん不器用にやったのです。引き金のひきかたが……
[#ここで字下げ終わり]
この最初の二行を使って、あとはいい加減に書きそえたものだった。
レエヌは、上眼づかいでジロジロとキャラコさんの顔を見上げていたが、唇のはしを妙なふうに歪《ゆが》めて、
「どう。感動した? ……と、すると、プルウスト氏にお礼をいっていいわけね」
キャラコさんは、しずかにレエヌさんの顔を見かえす。病気でながらく床についていたこの気の毒なひとは、小説を読んで、想像の中でさまざまに自分の境遇を変えて気晴らしをしているのかも知れない。
キャラコさんは、おだやかな笑いをうかべながら、いった。
「……あなたが、自殺しそこなう。その手紙を見て、驚いて、むかしの友達が駈けつけてくる。……二人が手をにぎる。……それから、どうなるの、レエヌさん……」
レエヌは、焦《いら》だって、敷布《シーツ》の端をもみくしゃにしながら、
「なんて奴だ。まだ嘘だと思っていやがる。……うしろを見てごらんなさい。あたしたちは、冗談をしてるわけじゃないのよ」
八
キャラコさんが、うしろを振りかえって見ると、いつの間にはいってきたのか、保羅が、濡れた髪をべったりと額にはりつけ、曖昧な薄笑いをしながら、大きな斧を持って扉《ドア》のところに突っ立っていた。酒気で真っ赤に熟した頬から、ポタポタと雫《しずく》をたらしている。
(どうするつもりだろう)
なぜか、すこしも危険は感じなかった。
「保羅さん、いまいろいろ、うかがっていたところよ。あたしを欺《だま》してこんなところへ連れて来て、いったい、どうなさるおつもり?」
保羅は、壁の凹みに斧を立てかけると、ジットリと濡れた外套の裾をまくりあげ、キャラコさんと向い合って椅子にかけながら、
「もう、たいてい察しそうなものじゃありませんか。……要するに、僕と結婚さえしてくれれば、それでいいんですよ」
事務の話でもするような、こだわりのない口調で、
「廻りッくどいことをいうのはよして、単刀直入にいいますが、もちろん、形式だけのことでいいのです。結婚式をあげて、入籍の手続きをすましたら、すぐ離婚してくだすって差し支えないんです。離婚の条件として、僕に十万円だけください。それだけのことです。たいして、むずかしいことじゃないでしょう」
レエヌが、鋭い声で叫んだ。
「どう、やっとおわかりになった? あなたが余計なところへでしゃばってきて、アマンドのほうをめ茶め茶にしてしまったんだから、それくらいの償いをしてくださるのはあたりまえよ」
キャラコさんは、たじろがない眼で相手の顔をながめながら、感情の翳《かげ》のささぬ、落ち着いた口調でいった。
「お話はよくわかりましたが、あなた方がかんがえていらっしゃるように、そんなに簡単にゆくかしら……」
保羅は、ピクッと神経的に眉を動かして、
「こんなところに、三日も四日も僕と一緒に暮らしていたということが評判になっ
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