室《サルーン》へはいりましょう」
 すこし離れた船室の扉《ドア》がとつぜんにあいて、レエヌさんが顔をだした。閾《しきい》のところに立って、凍《こご》えたような眼でキャラコさんをにらみつけていたが、そのうちに、鶏の鳴くようなけたたましい声で叫んだ。
「ちくしょう、殺してやる!」
 走り寄ってきて、
「……|恥知らず《アンファーム》!……すれっからし《インピュダンス》!」
 と、わめきながら、手に持っていた短いロープの切れっぱしで、気がちがったように続けさまにキャラコさんの肩を打ちすえた。
 キャラコさんは、ロープのしもとの雨の下で、一種|自若《じじゃく》とした面持ちでレエヌさんの顔を見上げていた。
(なるたけ、腹を立てないように……)
 しかし、今度ばかりは、キャラコさんの忍耐はあまり役に立たなかった。生まれてからまだ一度も感じたことのないようなはげしい憤《いきどお》りの情が、酸のように、意志の力を腐蝕した。
(どんな事があってもあやまらせずにはおかない!)
 レエヌさんが、息を切らして打つのをやめると、キャラコさんは、しずかに立ちあがって、秋霜のような威厳で命令した。
「レエヌさん、あなたがなさったのは、たいへんいけないことなんだから、あたしにおあやまりなさい! ……たった、一度でいいから!」
 人並はずれて愛想のいい、やさしいこの娘の、いったいどこに、こんなはげしいものがひそんでいたのだろう。ついぞ、荒《あら》い言葉ひとつ口から出したことがなかっただけに、このようすには、なにか底知れないようなところがあった。ピエールさんは、あっけにとられて茫然とながめていた。
 レエヌさんは、憎悪に満ちた眼差しでキャラコさんの顔をにらみつけると、息をはずませながら、甲走《かんばし》った声で、叫んだ。
「あたしが、……あたしが、あんたにあやまるんだって? ……あやまるわけなんかない。……死んだってあやまるもんか!」
 キャラコさんは、顎《あご》をひきしめて、もう一度しずかにくりかえした。
「たった一度でいいから、あたしにおあやまりなさい。あやまらないと、ここを動かさなくてよ」
「あやまるもんか!」
「あやまるまで、いつまでも待っているわ」
 キャラコさんは、まじろぎもしなければ、ものもいわない。五尺ほど間隔をあけて、レエヌさんの顔を見つめたまま甲板に根《ね》が生えたようになってしまった。
 けたたましいレエヌさんの叫び声をききつけて、何が起こったのかと思って、イヴォンヌさんやエステル夫人やベットオさんが、寝衣《ねまき》のままで甲板へ飛び出して来たが、人がちがったようなキャラコさんのきびしいようすにけおされて、そばへ寄ることもできない。船室《サルーン》の入口のところにかたまって手をたばねて傍観するほかはなかった。
 それから、五分ほどしてから、アマンドさんが甲板へあがってきた。
 ピエールさんからあらましのことを聞くと、大股にレエヌさんのそばまで歩いて行って、いつに変わらぬ寛容な声で、
「レエヌ、お前のほうが悪いのだからあやまりなさい。……キャラコさんは、たったひとことでいいといってるじゃないか」
 レエヌさんは、踊りでも踊っているかと思われるような調子はずれなはげしい身振りで、地団駄を踏みながら、
「だれが、だれが、だれが! だれがあやまってなんかやるもんか! 死んだってあやまらない! ……あたしは、子供のときから、こんなふうにばかりして生きて来たんです! ……どうせあたしは黄白混血児《ユウラジアン》さ! どっちみち、どちらの側からも好かれやしない。おとなしくなんかしていることはいらないんだ! ……なまじっか、普通のお嬢さんのように、幸福《しあわせ》になんかなろうと思ったばかりに、身につかない夜会服《ソアレ》なんかでしめつけられて、それこそ息のつまるような思いをしたよ。……ヘッ、有難かったね。……ナヨナヨと扇をつかいながら、|Bonjour Monsieur《ボンジュール・ムッシュウ》 か。……なんというお笑いぐさだ。……ああ、もうたくさん! そんな茶番《ちゃばん》はあたしの性に合わないの。……あたしは、あす、快遊船《ヨット》を降りて、淫売婦《いんばいふ》にでもなっちまう。そのほうが、結局、人間らしい生活というもんだわ」
 自分でも手に負えなくなった憤怒の情を、だれかに移してやろうというふうに、火のついたような殺気だった眼つきでまわりの一人一人をにらみ廻していたが、ピエールさんの顔の上へ眼をすえると、ツカツカとそのほうへ歩いて行って、
「ねえ、ピエールさん、あたしがこんな暴《あば》れかたをしたって、嫉妬《ジャルウ》だなんて思ってもらっては困るぜ。そんなんじゃないんだ。お前のことなんぞ、馬の尻尾だとも思っちゃいないんだ。……憎いのは、キャラコさんばかりじゃない。みんな、みんな、みんな、世界中の一人残らずが、みんな憎らしいんだ! どいつでもこいつでも、死ぬほど撲《ぶ》ってやりたい。……ぶってやる! ぶってやる!」
 ……いままで炎をあげていたレエヌさんの眼の中が、急に白くなったと思うと、のろのろと瞼《まぶた》を垂れ、くずれるように甲板に倒れて気を失ってしまった。

 キャラコさんは、寝苦しい夜をあかした。夜あけごろ、半睡《はんすい》のぼんやりした夢の中で、レエヌさんにとった自分の態度を、後悔したり、肯定したり、組《く》んずほぐれつという工合にこねかえしていたが、あんな不当には負けていないほうが本当だという結論がついて、安心してぐっすりと眠ってしまった。
 眼をさましたときは、もう八時半だった。あわてて飛び起きて身じまいをすると、電話で、イヴォンヌさんに宣言した。
「あたし、きょう、快遊船《ヨット》を降りるのよ。あなた、あたしのお伴《とも》なんだから、あなたも、まごまごしないで支度をなさい」
 イヴォンヌさんが、電話の向うで、たまげたような声を、だす。
「降りるんですって? でも、あたし、まだねむっているのよ」
「ゆすぶって起こしなさい」
「じゃ、ゆすぶってやるわ。……よいしょ、よいしょ。……はい、眼をさましました。……いますぐなの?」
「ええ、いま、すぐ。……これは、命令よ、早くなさい」
「できるだけ、あわてます。……ねえ、キャラコさん、あたし、もう、こんな快遊船《ヨット》なんかいたいと思わないわ。アマンドさんにわるいけど……。あのアンファン・テリイブルはどうしたかしら。本当に快遊船《ヨット》を降りるつもりでしょうか」
「こらこら、なにを、ぐずぐずいっている。早くしなさいったら!」
「へいへい。すぐやりますですから、あまり、お叱りくださいませんように……」
 イヴォンヌさんのほうが片づいたので、ひとつずつ船室《サルーン》の扉《ドア》をたたいて、今まで親切にしてもらったひとたちに愛想よく別れの挨拶をして廻った。
「ほんとうに、楽しい思いをしましたわ。もう、二度とこんなことはできそうもありませんから、それだけに、なんだか名残り惜しいような気がします」
 うるさい気持の葛藤や、昨夜のレエヌさんの仕打ちを思い出さないようにすれば、この二週間の快遊船《ヨット》の生活はたしかに楽しかったので、キャラコさんの挨拶は嘘ではなかった。
 アマンドさんは、さすがに困ったような顔をしながら、
「ああ、せめて、そうでもいってくだされば、すこしは気持が楽になります。楽しくしていただこうと思ったのに、反対な結果になってしまいましたが、まあ、どうかゆるしてください。……レエヌは、けさくらいうちに快遊船《ヨット》を降りてゆきました。あれにはあれの考えがあるのでしょうから、しばらく、したいようにして見るのもいいだろう。あれは、たしかに一種の病人《マラード》なんだから、お腹《はら》もたったことでしょうが、かんべんしてやってください。……つまらぬ事ばかり多かったうちで、あなたのような優しいお嬢さんにお目にかかれたことが、こんどの航海の、ただひとつの楽しい出来事になりました」
 聖画の中の聖人のような素朴な顔を笑みくずしながら、
「ねえ、キャラコさん、……このわたしが、……こんな白髪頭《しらがあたま》の老人が、お世辞をいうとは、まさかおかんがえにはならないでしょう。わたしは、ほんとうの気持を告解《コンフェッセ》しているんですよ」
 そういって、温い大きな手で、キャラコさんの手をしっかりとにぎった。
 いよいよランチが出るというときになると、エステル夫人もベットオさんも、さすがに名残りが惜しいらしく、キャラコさんの手をつかんでなかなか離そうとしなかった。エステル夫人が、キャラコさんの頬に接吻して、
「これは、お詫びのしるしです」
 と、正直なことをいった。
 ランチが、五|間《けん》ばかり快遊船《ヨット》から離れた。
 イヴォンヌさんが、元気のいい声で、
「さよなら、さよなら」
 と、怒鳴った。
 そのころになって、ピエールさんがあわてたように舷側《げんそく》へ出てきた。複雑な表情をしながらなにかひと言叫んだが、イヴォンヌさんの声に消されて、キャラコさんの耳には届かなかった。キャラコさんは、ピエールさんのほうへ手をあげて挨拶した。ピエールさんは、気がぬけたように無意味に手を振っていた。

     六
 快遊船《ヨット》を降りて半月ばかりのちの夕立ち模様の夕方、キャラコさんが部屋で本を読んでいると、
「お若い男の方が、お嬢さまにと、おっしゃって玄関でお待ちになっていらっしゃいます」
 と、女中がいいに来た。
 玄関へ出て見ると、混血児《あいのこ》らしい顔をした廿五六の青年が、火のついた巻煙草をじだらくに口にくわえたまま、入口の扉《ドア》にもたれて立っていた。
 すこし大きすぎる服を無頓着に着、踏みつぶしたような鼠色のソフトを阿弥陀《あみだ》にかぶって、右手に碧《あお》い石のはいった大きな指輪をはめている。なにかゾッとするような野卑なところがあった。ぷんと酒臭い匂いがした。
「あたしに、なにか御用でしたの」
「そうです」
 唇も動かさずに、ぶっきら棒にいうと、帽子へちょっと手をやって無造作な挨拶をして、
「僕ア、礼奴《れえぬ》の兄の保羅《ぽうる》ってもんです。……じつア、ちょっとお願いしたいことがあって……」
 レエヌさんの兄さんの保羅……。そういえば、眼差しや眉のあたりが、美しいレエヌさんによく似ている。
(それにしても、あたしに用って、いったい、どんな事かしら……)
 キャラコさんは、愛想のいい調子で、たずねた。
「……それで、あたしに、どんな御用?」
 青年は、扉《ドア》に背をもたせたまま、
「レエヌが、死にかけて、あなたに、逢いたがっているんです」
 だいぶ酔っている。舌がもつれて、言葉のはしはしがよくききとれなかった。
「……ピエールと喧嘩をして快遊船《ヨット》を降りてから、身体を悪くして、横浜の根岸の家で、もう半月もずっと寝たきりになっているんですが、どうしたのか、この四五日前からしきりにあなたに逢いたがる。迎いに行って、ぜひいちど来てもらってくれと頼むんですが、知らないならいざ知らず、私もレエヌからきいてよく知っているのですから、あんなことのあったあとで、こんなお願いに出るのも、あまり虫がいいようで、てれくさくてしようがないから、今日も逢えなかった、今日も逢えなかったで、ごまかしていたんです。……ところが……」
 急に暗い眼つきをして、窓のほうへぼんやりと視線を漂わせていたが、右手の人差し指を曲げて顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にあてがうと、沈み切った声で、
「……じつは、ゆうべ、とうとうやったんです。……まずいことには、これが失敗《しくじ》っちゃって……。そんなわけだから、もう嘘はいえない。今日こそは、どんなことがあっても、お目にかかって、お願いして見ようと思って」
 と、いいながら、ポケットから封筒にはいった手紙を取り出して、
「ここに、あいつの手紙を持っていますから読んでみてください。……僕なんかが、ぐずぐずいうよりもそのほうが
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