のもなくて、ひどく広々としている。
キャラコさんは、船尾のほうまで歩いて行って、派手な日除《ひよけ》の下の揺椅子《ロッキンング・チェヤ》の中に沈み込んだ。
膚にさわらぬほどの海風が、気持よくそっと襟《えり》のあたりを吹いてゆく。
薄い月の光で、海の面《おもて》がぼんやりとけむり、古沼《ふるぬま》のようにはるばるとひろがっている。空には白い巻雲《まきぐも》がひとつ浮いていて、眼に見えぬくらいゆっくりと西のほうへ流れてゆく。
キャラコさんは、揺椅子《ロッキング・チェヤ》の中でのびのびと身体をのばしながら、巻雲のゆくえを眼で追っているうちに、こんな無意味な感情の狭間《はざま》の中で当惑していなければならない自分の境遇をばからしくてたまらなくなってきた。
「……他人《ひと》の気持をいたわるのは大切なことだけど、そのために、じぶんの意志や感情まで投げ出してしまうのは、あまりほめた話ではないわね。……何より、女のやさしさと卑屈とをはきちがえないようにするこったわ。……アマンドさんを恐縮させるのはお気の毒だけど、できるだけ正直にこちらの気持をうちあけて、朝のうちに快遊船《ヨット》を降りてしまうことにしよう。……イヴォンヌさんや山田氏のほうは、あまり閉口させなくともすむように、なんとかうまくやれそうだわ」
甲板《ウエル》の遠いはしのほうで、人の足音がする。
振りかえって見ると、ピエールさんだった。寝巻《ピジャマ》の上へ大きなトレンチコートを着て煙草を喫いながらゆっくりとこっちへやってくる。煙草の火が海風に吹かれて線香花火のように散る。
ピエールさんは、すこし離れたところで立ちどまって、ジッとこちらをながめていたが、びっくりしたような声で、
「キャラコさんですね?」
と、いった。
キャラコさんが、笑いだす。
「ええ、あたくし。……人魚じゃなくてよ」
ピエールさんが、微笑しながら近づいてくる。
「人魚でなくてしあわせでしたよ。もし、人魚だったら、ベットオ先生につかまって遠慮なしに解剖されてしまうでしょう。……それにしても、どうして今ごろこんなところにいらっしゃるんです。珍らしいこってすね」
「あたしが詩人だってことをご存知なかったのね? ピエールさん」
ピエールさんは、おおげさに驚いたという身振りをして、
「詩人! ……おお、それは存じませんでした。射撃の名人が詩までつくるとは!」
「びっくりさせてお気の毒でしたわ」
「びっくりついでに、なにかひとつ朗読《レシテ》してきかせてください。……月もいいし……」
「でも、おしゃべりしながら詩をつくるってわけにはゆきませんわ」
「すると、つまり、私は詩作のお邪魔をしているってわけなんですね」
「ええ、まあ、そういったわけね。……それで、あなたのほうはどうなんです。身投げでもしにいらしたの?」
「身投げなら始末がいいが、私のやつは、こんなふうにのそのそ歩き廻らなければおさまらない病気なんです」
「夢遊病《ソムナビュリスム》ってわけなのね」
「たしかにそれに近いようですね。……つまり、心の悩み、ってやつなんです」
「おやおや、たいへんだ。じゃ、あたしなんかにかまわないで、どんどん悩んで、ちょうだい。ここで拝見していますわ」
「まあ、しかし、ちょっと|仲入り《アントラクト》ということにしましょう。お邪魔でなかったら、もうしばらく、ここへ掛けさせておいてください」
「ちっともかまいませんわ。どうぞ、およろしいだけ。……あたしは、あたしのことをしますから」
ピエールさんが、煙草に火をつける。男にしては、すこしやさしすぎる横顔が、瞬間、燐寸《マッチ》の灯《ほ》影の中へ浮びあがって、また消える。
ピエールさんは、心の中のひそかな憂悶をおし隠そうというふうに、わざとらしくほほえんで見せて、
「私は、レエヌを気の毒な娘だと思っています。誰からも愛されないし、誰からも好かれない。自分で、嫌われるように嫌われるようにしむけてゆくのです。……なにびとをも愛さなければ、どんな親切をも受けつけない。奇嬌《ききょう》で、廃頽的で、ひねくれていて、ひょっとすると、徳性《モラリティ》というものを全然持っていないようにさえ見える。……どんなものにも満足しないし、どんな環境にも落ち着いていられない。しょっちゅう、何か刺激と変化を求めてイライラしている。このへんのことは、あなたもよくご存知でしょう」
キャラコさんは、返事をしなかった。答えようとすれば、ピエールさんのいったことに同感するほかはないのが情けなかった。
ピエールさんは、努力しながらものをいっているというふうに、ときどき、度を超えた快活な調子をまぜながら、
「……率直に打ちあけますが、私自身、どんな具合にしてレエヌの気持を和《やわら》げていいのかわからなくなっている。……いったい、何があんなにレエヌをいら立たせるのか、どうしても理解することができないのです。……おやおや、これぁどうも、ひどく、述懐めいて来ましたね。しかし半分は、今夜、レエヌがあなたにした無礼な仕打ちのお詫びのためでもあるのです。まあ、そのつもりで聞いていらしてください」
「あたしのためならそんなお心づかいはいりませんわ。たしかに、あたしの出しゃばりだっていけなかったのですから」
ピエールさんは、これ以上、廻りっくどいことはいっていられないというように、急に、激した口調になって、
「ねえ、キャラコさん、いったい、なにがレエヌをあんなに自棄的にさせるのでしょう。何かお気づきになったことでもおありですか」
キャラコさんは、当惑を感じながら、言葉すくなに、こたえた。
「あたしには、むずかしすぎる問題ですわ」
ピエールさんは、すぐ気がついて、
「ごめんなさい。あなたを困らせるつもりではなかったのです。……それにしても、レエヌは、むかしからあんなふうだったのですか。あんなふうに虚無的《ニヒリテック》な……」
「いえ、そうは思いませんわ。うちとけないところはたしかにありましたけど、そのために、友達を怒らせるようなことはありませんでした」
ピエールさんは、ちょっとの間沈黙していたが、だしぬけに口をきって、
「レエヌが、横浜の海岸通りで、母と兄と三人で小さな酒場《バア》をやっていたことをご存知ですか」
「ええ、うすうす」
「たぶん、それが原因なのでしょう。……そういう事実が、われわれの耳へ届いたのは、つい二年前のことですが、父にすれば、何といったって弟の子供ですから、そんなふうに放って置くわけには行かないので、人をやって無理にレエヌをカナダへ引きとったのです。兄の保羅《ぽうる》のほうは、母親をひとり残して置けないといって、どうしても日本を離れませんでした」
「それで、レエヌさんのお母さまはどうなすったの」
「間もなく病気で亡くなりました」
「レエヌさんは、孤児《ひとり》になってしまったわけね」
「しかし、そのかわり、カナダへ国籍が移されて、叔父や叔母や養父や義妹や、……それから、許婚者《フィアンセ》までできたのです。しいていえば、礼儀正しい、清潔な環境と、どんなにぜいたくをしてもいいほどの財産とね。あのまま日本にいたら、レエヌはもっと不幸になっていたでしょう」
(ピエールさんの独断《ドグマ》には、なかにすこし喰いちがいがある)
しかし、そうはいわなかった。
「そうかも知れませんね」
ピエールさんは、むかしのことを思いかえすような深い眼つきをしながら、
「レエヌが日本からやって来て、とつぜん、われわれの前へ現われたときは、ほんとうに、美しかった。まるで、生きた日本人形のようでしたよ。……長い袖《そで》のあるキモノを着ましてね、髪に桜の花の簪《かんざし》をさして、いつも眼を伏せて微笑ばかりしていました。……レエヌは、私ども一家の、すこし調子をはずした日本趣味《ジャパニスム》を知っていて、そんな媚態《コケットリイ》をやって見せたのにちがいありません。……あのころのレエヌは、たしかにわれわれに気にいられたいという素直な気持があったのです。……父は、あんなふうなんですから、有頂天になって喜びましたが、エステル叔母や頑固な親戚たちは、こいつに大反対なんです。死んだ父の子供ならフランス人であるべきだというんです。……しかし、これは、レエヌにとっては、たいした問題じゃなかった。もともと黄白混血児《ユウラジアン》ですし、あの通りの気紛屋《キャプリシウズ》だから、今日は日本人、あすは仏蘭西《フランス》人というぐあいに、どちらの側にも都合がいいようにうまくやってのけました。おもしろがっているようにすら見えたくらいです。……とにかくどういう意味でも、われわれの家庭の中に、レエヌをいら立たせたり、自棄《やけ》にさせたりするような原因はなかったと思います。……ところで、レエヌが、おだやかにしていたのは、カナダへ着いた当座の、ほんの一月ぐらいだったでしょう。それが過ぎると、剛情で、野卑で、ひねくれて、陰険で、手に負えないようになってしまいました。むやみに金を費《つか》ったり、人に喰ってかかったり、下等なことをわめきちらしたり、……何の理由もなしに自殺しかかったことさえあるんです。むかし、酒場《バア》をやっていたころ、どんなくらしをしていたのか知りませんが、たしかに、そのころのひどい生活がレエヌの性格の中へ深く染み込んでいるのにちがいないのです」
何ともつかぬ切実な感情が、キャラコさんの心をしめつけた。
「もし、そうだとすると、それは、レエヌさんの罪ではありませんわ」
ピエールさんは、当惑したような眼つきでキャラコさんの眼を見かえしながら、
「すると、いったい、だれの罪なんです。少なくとも、われわれは、どんな小さなことでも、レエヌの幸福ばかりを考えてやってきたつもりです。正直なところ、私がレエヌと結婚しようと決心したのは、そうでもしたら、レエヌを、……あの、手のつけられない不良少女《アンファン・テリイブル》を正常《ノルマル》な性格にひき戻すことができるかと考えたからなんです」
と、いって、苦味のある微笑をうかべながら、
「ところが、当のレエヌは、婚約披露の晩餐の席で、突然立ちあがって、わけのわからない自作の詩の朗読をやり出す始末なんです」
「どんな詩だったのでしょう」
「いや、とるに足らない無意味《ナンセンス》なもんなんです。……なんでも、こんなふうでした。……(鴎《かもめ》、鴎、鴎に故郷はない。……陸《おか》も自分の故郷ではない、海も自分の故郷ではない。……今日もまた空の下の涯《は》てない漂泊……)……まあ、だいたい、こんな工合なものでした。……ところで、鴎が、いったい、どうしたというんだ。鴎とわれわれの婚約に何の関係があるというんです。……みなふき出すやらあっけにとられるやら、さんざんなていたらくでした。……ああ、何が気にいらなくてあんなすねたような事をするのだろう。あのちっぽけな頭の中に、どんな悪魔が巣を喰っているというんだ!」
ピエールさんは、ありったけの憤懣《ふんまん》を吐き出すといった調子で、
「あんな手に負えない|しろもの《クレアチュウル》と、……失礼、乱暴な言葉をつかって、ごめんなさい。……あんな手に負えない娘とこれからずっと一緒にやって行くのだと思うと、考えただけで気がめいってしまいます。……私はあまり、感傷的だった。……父も、このごろ、遠廻しにそんな意味のことをいいます。たしかに、そうに違いない。私の向う見ずな同情は、生涯、私の後悔の種になることでしょう」
見苦しいようすを見せまいとして、押しだすような微笑をうかべながら、
「……日本からヴァンクウヴァへやって来たのが、あなたのようなお嬢さんだったら、それこそ、どんなに有難かったか!」
そういうと、眼に見えないくらい頬をあからめて、
「これは冗談です。どうか気になさらないでください。…人間というものは、取り乱すと、心にもないことを口走るものですからね。……ああ、よくしゃべくった。……風が冷たくなって来ましたね。もう、そろそろ、船
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