んは、べつべつにつがれる葡萄酒を、すこしずつ飲んで見る。料理と酒がなんともいえない諧調和《アルモニイ》をつくって、口の中が夢のようにおいしい。美食学というのも大したものだと思って感心する。なんだか、世界が広くなったような気がする。
食卓の会話が、だんだん陽気になる。キャラコさんも、すこしずつ愉快になって、歌でもうたいたいような気持になる。となりをふりかえって見ると、イヴォンヌさんも赤い顔をしている。二人は顔を見合わせてニヤリと笑う。互いに、眼でやり合う。
(や、赤いぞ、赤いぞ)
(あなただって、そうよ)
食事がすんで娯楽室《バスチム》へ引き移ると、いつものように無邪気な遊びがはじまる。
ベットオさんが、この世へ生まれ出てから一番最初に覚えた歌を、できるだけ大きな声で唄うこと、という課題を出した。
優しいようでなかなか手ごわい課題だ。たれもかれも、みな、むずかしい顔をして幼い時の記憶をたどりはじめる。
ベットオさんが、最初はわたしが模範を示します、といって立ちあがる。ベットオさんは、独逸《ドイツ》の田舎の生まれだ。こんな童謡をうたい出す。
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鐘つけ、鐘つけ、
釣鐘草、
ハンスの家のお祝いだ、
そうれ、ごうんとつけ。
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猪首《いくび》で、あから顔の、ずうたいの大きなベットオさんが、こんなあどけない歌を、せい一杯に声をはりあげてうたうようすは、いかにもおかしい。みな、腹をかかえて、涙をふく。
つぎに、やせたバアクレーさんが、ヒョロリと立ちあがる。近眼鏡を光らせながら、おおまじめな顔でやりだす。
[#ここから3字下げ]
ピエロオさん、
ペンを貸しておくれ。
月の光で
ひと筆書くんだ……
[#ここで字下げ終わり]
次々に立って、珍妙な歌をとほうもない大きな声で唄う。ひとりすむたびに、われかえるような爆笑が起こる。
そんな大騒ぎの最中、とつぜん、扉《ドア》があく。
レエヌさんが、炎《ほのお》色の、放図《ほうず》もなく裾《すそ》のひろがった翼裾《ウイング・スカーフ》のソワレを着て、孔雀《くじゃく》が燃えあがったようになってはいって来た。
「たいへんな、ばか騒ぎね」
小さな頭をそびやかして、入口に近い椅子に掛け、青磁《せいじ》のようなかたい蒼《あお》い眼で、おびやかすようにみなの顔を見まわす。
イヴォンヌさんが、キャラコさんのほうを向いて、ちょっと、片眼をつぶって見せる。
「……あれ、ピゲェの一九三八年の|変り型《ファンシイ》よ。去年の(ヴォーグ)にのってたわ」
キャラコさんも、見て知っている。たいへんだなア、と思って恐縮する。でも、きこえてはたいへんだから、あたりさわりのない返事をしておく。
「みごとね」
ピエールさんは、困ったような顔でそのそばへ行って、もう、頭痛はなおったのかと、たずねる。
レエヌさんが、突《つ》んぬけるような声で叫びだした。
「うるさくて、寝ていられません」
これで、一座がしんとなる。
レエヌさんの部屋は、ここからずっと離れた船尾のほうにある。そこまでこの騒ぎがきこえるはずはないのだが。
アマンドさんが立って行って、いつも変わらぬ寛容なようすで、
「それは、悪かった。もう、よすよす……静かにしているから、行っておやすみ」
これで、折れてくるかと思いのほか、いっそう気狂いじみたようになって、
「出て行くのは、あたしじゃない。あたしはここにいるんだ!」
と、叫びながら、地団駄をふむ。
我ままなことは知っているが、こうまでの狂態はさすがに今まで見たことがなかったので、みな、あっけにとられて黙り込んでしまう。
キャラコさんは椅子にかけて、おだやかにほほえんでいた。
レエヌさんはまだ遠廻しにしかいっていない。お前、ここから出て行けとはっきりいったら、その時いってやることは、ちゃんときまっている。それまではじっとしていればいい。しかし、これは、なかなか勇気のいることだった。胸がふるえて来てとめようがない。
キャラコさんは、やはり聡明だった。この騒ぎは、これ以上発展しなかった。ピエールさんが、やさしい口調でなだめて、とうとうしずめてしまった。
みなの眼が、じっとレエヌさんを眺めている。さすがにレエヌさんもいにくくなったと見え、椅子から立ちあがると、扉《ドア》のところで、憎悪をこめた眼つきでキャラコさんのほうをふりかえって、
「ミリタリズム!」
と、聞えよがしにつぶやいて、出て行った。
これは、すこしひどい。
みなが、ハッとしたようすで、キャラコさんのほうをぬすみ見る。
キャラコさんは、のんびりした声で、いう。
「もし、負けていたら、あたしだったら、もっと腹を立てかねませんわ。……負けるって、あたし、ほんとうに嫌いよ。……ほらね。……レエヌさんのおっしゃったことは嘘じゃないわ」
これで、ピエールさんがわびなくともすむことになった。アマンドさんが、遠くから、感謝と敬意のまじった眼ざしでキャラコさんにうなずいてみせる。
元気のいい、がむしゃらなところもありそうなこの娘が、どんなこころでこんな不当な侮辱を忍んでいるのか、それがよくわかる。そのうえこのちっぽけな娘は、社交馴れた、最も聡明な夫人ほどにもうまくやってのける。ふしぎな娘だと思って、四方からキャラコさんをみつめはじめる。
またとつぜん扉《ドア》が開いて、エステル夫人が、はばのあるがっしりした肩をそびやかすようにしてはいってきた。
いずれエステル夫人がやって来るだろうという予感がみなの心にあった。たぶんレエヌさんは、エステル夫人のところへうったえに行くだろうし、そうなれば、夫人が黙って放っておくわけはない。果してだった。エステル夫人は、入口のところに立って、ごうじょうな気性をそのままに現わして、男のように腕組みをしながら、ジロジロとみなの顔をながめわたしている。だいぶ風向きが悪いらしい。
エステル夫人は、感情を無理におさえつけているような声で、
「いったい、どうしたの?」
と、切り出す。たれも返事をしない。結局、アマンドさんが、太刀《たち》うちを引き受ける。
「何がどうしたというんだね」
たいへんおだやかに、こういう。アマンドさんの受け方はなかなか堂にいっている。長年のうちに、悍馬《かんば》のようなエステル夫人をなだめるコツをすっかり会得してしまったらしい。
「そんなところに立っていないで、お前も仲間へはいりなさい。いま迎えにやろうと思っていたところなんだ」
エステル夫人が、はねかえす。
「よしてください、とぼけるのは。……ねえ、いったいどうしたの? どうしてレエヌをあんな目にあわせるんです。レエヌはわたしの部屋で泣いていますよ」
アマンドさんが、両手をひろげる。
「うるさくて眠られないから、静かにしてくれというので、この通り静かにしている。……これ以上、どうにもしようがない。……いったい、なにが悲しくて泣くんだね」
「悲しいのじゃありません、怒っているのです」
「いよいよもってわからないな」
「あなたがたが、皆がかりで、レエヌを怒らせてしまったのです。どうして、あの娘ばかりいじめるの。……ねえ、兄さん、このごろのあなたのなさることは、すこし偏頗《へんぱ》だと思うんですがね。ひとのお嬢さんをちやほやするのもいいが、それならそれで、身内《みうち》のものも、もっとだいじにしたらどう?」
「ずいぶんだいじにしているつもりだ」
エステル夫人は、チラリとキャラコさんのほうへ流眄《ながしめ》をくれて、
「おやおや。……あたしには、どうもそう思えませんがね。だいいち、ピエールが、いけない」
ピエールさんが、ピアノのそばの椅子で、照れくさそうな顔をする。
「今度は私の番ですか、エステルおばさん」
エステル夫人は、ピエールさんのほうへ向きなおって、
「ええ、そうですとも。あなたが、いちばんいけないんだ。じっさい、あなたの|新し好き《スノビスム》には困ってしまう。どうして、そう移りぎなんだろう。そんなことは、あんまりみっともよくないね」
ピエールさんが、顔を赧《あか》くして、すこし、怒ったような声をだす。
「エステルおばさん、そういうあなたのなさりかただって、たいしてほめられはしませんよ」
エステル夫人は、肚《はら》を立てて、踵《かかと》で強く床を踏む。
「あたしのことは放ってお置きなさい。なんであろうと、いうだけのことはいうんだから」
ピエールさんが、とてもかなわないといったようすで、折れて出る。
「私が悪いならあやまりますが、いったいレエヌはなにが気にいらないというんです」
「頭痛がするといって寝ているのに、なぜひとりで放っといたりするんです。あれは、あなたの何にあたるひと?……今からそれじゃ、レエヌだってやるせながるのも無理はないでしょう。……とにかく、あたしの部屋へ来て、レエヌにおあやまんなさい」
「そんなことまで、あなたに指図《さしず》されなくてはいけないんですか」
「おや、大きな口をきくこと。なんでもいいから、あたしと一緒にいらっしゃい」
アマンドさんが、眼顔《めがお》で、行ってやれ、と合図をする。ピエールさんが渋々と立ちあがる。
エステル夫人は、またアマンドさんのほうへ向きかえって、
「ねえ、兄さん、あたしだって平和にやるほうが好きなんですよ。しかし、それにはそれだけのことをしてくださらなくては。……なにしろ、狭い船の中のことですからね。これは、けさもいいましたが、もういちど、ご注意までに申し上げときますよ」
エステル夫人とピエールさんが出て行くと、ベットオさんは、お前がいるから、それで、こんな騒ぎが起きるんだ、というような眼つきで、ジロリとキャラコさんの顔をながめてから、
「わしは、こんな騒ぎはまッぴらだ。……このへんでそろそろ退却しよう」
と、大きな声でいうと、不機嫌そうに肩をゆすりながら、酒場《バア》のほうへ行ってしまった。
一座の気分は、これですっかりしらけてしまった。アマンドさんだけは、てんで気にも止めていないらしい。新聞を下に置くと、ニコニコ笑いながら、眼鏡越しに一座をながめわたして、
「さあ、もう嵐はおさまった。かまわないから続けなさい。海の上の鴎《かもめ》というものは、いつまでも嵐のことなんぞ気にやんでいないものだ」
五
キャラコさんは、船室へ帰ると、すぐ寝床《ベッド》へはいったが、なかなか眠れない。
快遊船《ヨット》から降りさえすれば、レエヌさんと無意味な対立などをしなくともすむし、エステル夫人やベットオさんのうるさい気持の反射なども感じなくともすむ。じぶんのほうはそれでいいが、そのために多少とも迷惑をこうむるひとたちのことをかんがえると、じぶんの感情にばかりまかせて簡単に行動するわけにはゆかない。
(そんなことをしたら、無理にこの快遊船《ヨット》へ誘ったイヴォンヌさんや山田氏が不愉快な目にあわしたということで、あたしにすまない思いをするだろうし、アマンドさんだって、少なからず恐縮するにちがいないし……。)
それに、この快遊船《ヨット》の中で、じぶんだけがたった一人の日本人なので、いきおい、注目されたり、批評されたりしなくてはならない立場に置かれているのだと思うと、考えなしな行動はとりにくいのである。
キャラコさんは、あまりものごとに屈託しないたちだが、さすがに、うっとうしくなって、うんざりしてしまう。
「ベットオさんばかりじゃない、あたしだって、こんなうるさいことはまッぴらだわ。今度ぐらいつまらない目にあったことは、まだなかったわ」
丸い船窓から、水のような澄んだ月の光が斜めに床《ゆか》の上へさしこむ。
キャラコさんは、海風《うみかぜ》にでも吹かれたら、すこしさっぱりするかも知れないと思って、寝衣《ねまき》を脱いで、キチンと服に着かえると、イヴォンヌさんに気づかれないように、そっと甲板《ウエル》のほうへあがって行った。
みな船室へ引きとったと見えて、甲板《ウエル》には人影らしいも
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