3水準1−15−42]《しゃだ》のカンヴァスに閣下と並んで腹ばいになって、いっしょうけんめいに点数を争う。けっきょく、いつもキャラコさんのほうが勝つ。
 射撃に自信がないわけではないが、負けることの嫌いなレエヌさんとまた競争になりそうで、それを考えると気が重くなる。
 キャラコさんは、レエヌさんと女学校の二年まで同級だった。レエヌさんのお父さまは廿年も前にカナダから来たフランスの学者で、日本で結婚をしてそれから幾年もたたぬうちに亡くなられたということで、レエヌさんは、学校では、母かたの姓を名乗って、木村|礼奴《れいぬ》といっていた。
 そのころのレエヌさんはロオレンスの絵にある少女のように美しかった。眼が深く大きくて海のように碧《あお》く、皮膚が冷たくさえて、いつも月の光をうけているようなふしぎな感じを与えた。すばらしく勝気な、固苦しいほど熱心な勉強家で、いつもキャラコさんと首席を争っていた。決してうちとけないひとで、こちらでどんなに愛想をよくしても、ちょっと微笑をかえすだけで、頑固に孤立をまもって、いつも校庭の隅で、ひとりでブウルジェなどの小説を仏蘭西《フランス》語で読んでいた。
 家庭的にたいへん不幸なひとらしく、保羅《ぽうる》という、やはり混血の兄がひとりいるということのほか、自分の家庭についてはなにひとつ話さなかった。家も横浜にあるというだけで、横浜のどこに住んでいるのか誰れにも知らさなかった。
 級《クラス》では、礼奴《れいぬ》さんがお母さんと二人で、横浜の海岸通りで酒場《バア》をやっているのだという噂が伝説のように信じられていた。
 身振りや、言葉のちょっとしたいい廻しのなかに、相手をどきっとさせるような、大胆な、人ずれのした調子があった。いつもものうそうにして、しょっちゅう遅刻したり休んだりした。礼奴さんには女学校でやっているようなことは、つまらなくてやり切れないのらしかった。
「退屈で死にそうだわ。女学校の教師なんてみな馬鹿ばかりね」
 などといったりした。
 二年の進級試験が終わった朝、礼奴さんが校庭の入口でキャラコさんを呼びとめて、
「あたし、カナダの叔父にひきとられることになったのよ。あなたとも、これでお別れだわ」
 と、いつになくしみじみとした調子で、いった。
 一年ほど経ってから、礼奴さんがカナダのヴァンクゥヴァから短い便りをよこした。
 アマンドさんという、たいへんなお金持ちの叔父さんの邸《やしき》でぜいたくに暮らしていることや、カナダに籍が移ってレエヌという名になったことや、アマンドさんの息子のピエールさんと婚約したなどということを、誇らしい調子で書いてあった。
 快遊船《ヨット》の甲板で初めてレエヌさんを見たとき、それがむかしの礼奴さんだとは、どうしても思われなかった。髪を大人っぽくカアルし、きっちりとコルセットをつけ、言葉つきもそぶりもすっかりフランスのお嬢さんになり切っていて、日本に住んでいたようなようすはどこにも残っていなかった。
 それでも、さすがになつかしかったらしく、キャラコさんの手をにぎって、
「あたし、あれ以来日本の夢も見たことがなかったの。……あなたとこんなところでお目にかかるなんて、ほんとうに奇遇ね。この邂逅《ルコンネッサンス》は、たしかにふしぎよ」
 と、いって、いま、自分がどんなに幸福か、それを誇示するように、快遊船《ヨット》の中をくまなく案内して歩いた。
 しかし、レエヌさんの上機嫌は長くはつづかなかった。このごろでは、キャラコさんをあまりおもしろく思っていないらしい。
 ニュウグランドの土壇《テラッス》で、ピエールさんと二人っきりで話しているところを見てから、急によそよそしくなってしまった。
 ピエールさんは、死んだお母さんの子供のころの印象をなつかしそうにしみじみと話した。キャラコさんは、しんみになってそれを聞いていただけのことだったが、それ以来、レエヌさんは、なにか、ひどく対抗意識をもっていろいろといどんでくる。勝負ごとをひとつするにしても、いつも、あまり平和にはすまないのである。
 それに、カナダの銀行家だという、かっぷくのいい独逸《ドイツ》人くさいベットオさんも、あまりキャラコさんを好いていないらしい。アマンドさんの妹さんのエステル夫人などは、露骨にキャラコさんを毛嫌いして、
「あたしは、日本贔屓《ジャポニスト》というわけではないのよ」
 などと、はっきりしたことをいう。
 キャラコさんは、イヴォンヌさんの勧誘に屈服したばかりに、思いがけなく、こんな劇的な境遇に身をおくことになった。
 キャラコさんにしてもあまりおもしろくないが、こんなことぐらいで弱くなってはならないと思って、いっさい気にしないことにした。
 甲板のほうから鋭い銃声がひびいてくる。
 室僕《バトラア》が扉《ドア》をノックして、皆様が上甲板《ウエル》でお待ちかねです、といいにきた。
「ほら、迎いにきたわ」
 イヴォンヌさんは、じれったそうに足踏みをしながら、もだもだするというふうに胸のところをおさえて、
「あたし、ここんところにいいたいことがモヤモヤしているんですけど、どうも、うまくいえないの。……なんでもいいから、たった一度だけみなにあなたの腕を見せてやって、ちょうだい」
 西洋将棋《チェス》やドミノで勝って見たってどうでもないと思うので、今日までレエヌさんに譲ってばかり来たが、しかし、そうばかりしているのも、あまりほめたことではない。日本の娘は、みなこんなふうに卑屈なのかと思われても困るのである。負け勝ちは問題ではないが、自分のせいいっぱいなところを見せてやってもいいような気持になってきた。
 イヴォンヌさんは、キャラコさんの顔色を敏感に見てとって、
「よかったわ」
 と、うれしそうに手をたたいてから、急に真剣な顔になって、
「やるなら、あのひとに負けないで、ちょうだい」
 と、正直なことをいう。イヴォンヌさんも、レエヌさんが嫌いなのである。

 快遊船《ヨット》は、いま勝浦《かつうら》の沖を通っている。
 八|幡崎《まんざき》の灯台が、断崖の上でチョークのように白く光っている。
 二人が上甲板へあがってゆくと、舷牆《げんしょう》にすえつけた放出機《トラップ》のまわりに船長や客が船員が十四五人ばかり集まって競技をはじめている。いまアマンドさんが撃っているらしく、射撃台のところにまっ白な頭と桃色の首筋が見える。
 ベットオさんが審判係。バアクレーさんが記録係で、記録板を鼻の先におっつけるようにして点数をマークしている。かます[#「かます」に傍点]のように痩《や》せた、このひどい近眼のひとは、ミシガン大学の有名な東洋地理学者である。
 イヴォンヌさんが、遠くからにぎやかな声をあげて皆に挨拶をする。
 レエヌさんが、いつもの例で、おや、見なれない娘だ、というふうに、不思議そうな眼差しで二人をながめてから、
「ああ、あなたたちだったのね。あまり遅いから、もう、快遊船《ヨット》にいらっしゃらないのだと思っていましたわ」
 と、底意地の悪いことをいう。
 イヴォンヌさんは、負けていない。
「あたしたちが、まだまごまごしているんで、がっかりなすった?」
 レエヌさんが、肩をピクンとさせる。
「べつに、問題になんかしていませんわ」
 イヴォンヌさんが、勇ましく、やりかえす。
「ええ、どうぞ、そうして、ちょうだい。あたしたちもそのほうが望みよ。……あたしたち、アマンドさんのお客で、あなたなんかにべつに関係はないんですから」
 レエヌさんは、超然とした眼つきでイヴォンヌさんの眼を見かえすと、だまって揺椅子《ロッキンング・チェヤ》のほうへ歩いて行ってしまった。
 アマンドさんが、新しい銃を受けとって身構える。
 ヒュッ、ヒュッと音をたてて、|粘土の標的《クレエ》が放出機《トラップ》から飛び出す。生きもののようにもつれながら海の面をすべって行ったと思うと、急角度を切って紺青《こんじょう》の空へ舞いあがる。
 ズドン、ズドン!
 まっ白なクレエは飛びあがれるだけ飛びあがっておいて、それから、スッと逆落《さかお》としに海の中へ落ちこむ。
「零点《ヌル》!……合わせて、零点《ヌル》!」
 と、ベットオさんが叫ぶ。
 みな、どっと声を合わせて笑いだす。
 アマンドさんが笑いながら射撃台から降りてきて、キャラコさんに、身ぶりで、やりなさい、という。
 イヴォンヌさんが、キャラコさんの背中を、ぐいとこづく。
 キャラコさんは、決心して、射撃台へあがってゆく。
 しっかり足をふんばって、銃をかまえる。
 ズドン ズドン!
 青空の真ん中で、クレエが雪のようにくだける。
 室僕《バトラア》が、装薬《そうやく》した別の銃をツイと差し出す。
 また、空に、白い小さな雪煙り。
 三つ目だけミスして、五分の四で、八十点。大喝采《だいかっさい》だ。
 果して、レエヌさんが挑戦して来た。人垣のうしろから、
「二個撃《ダブル》なんか、子供だましよ。一個撃《シングル》ならお相手するわ」
 と、甲高い声で叫ぶ。
 レエヌさんがあまりうまくないことは、みながよく知っている。二個撃《ダブル》でもあたらないのに、一個撃《シングル》でやろうというのは理窟に合わない、はじめから、けんかだ。
 まわりが、ざわめきはじめる。
 英国人の室僕《バトラア》は、キャラコさんがひいきである。いんぎんなようすで、無言で銃を差し出す。キャラコさんが、無意識に受け取る。なんとか辞退しようと考えていたところだったのに、これで、退《の》っぴきならないことになってしまった。
 困って、アマンドさんのほうへふりかえると、アマンドさんは肩をゆすって見せる。かまわないから、やれ、というのだ。
 イヴォンヌさんが、ジッとこっちを見ている。
(やるなら、負けないで、ちょうだい)
 さっきのイヴォンヌさんの声が、耳の底によみがえる。長六閣下の顔がチラリと瞼《まぶた》の裏を横切る。キャラコさんは、すこし息ぐるしくなる。しかし、こうなった以上は、やっつけるよりしようがない。
 モリモリと闘志が湧き起こってきた。心の中で、しっかりした声で叫ぶ。
(負けないわ!)
 銃をとり直したとたんに、ヒュッとクレエが飛び出す。
 ズドン!
 つい、いまあった白いクレエはもうない。そこに、青い空があるばかり。
 ブラヴォ! みな、夢中になって手をたたく。
(こんなちっぽけな娘なのに、すごい腕前だ)
 こんどは、レエヌさんの番だ。
 銃を取って、なんだこんなものといった顔つきで、身をそらす。
 もう、癇癪《かんしゃく》を起こしている。どこもここもひどく誇張したジコップ・ピジャマの裾《すそ》が、ヒラヒラと風になびく。
 ズドン!
 クレエは、ずっと空の向うまで逃げ出してゆく。
 その次もだめ、その次もだめ。四度目に、ようやく一つ撃ち落とす。

     四
 レエヌさんは、頭痛がするから、今晩は食堂へ出ないそうだ。室僕《バトラア》がそれを告げに来た。
 イヴォンヌさんが、ささやく。
「はずかしくて、出て来られないのよ」
 けさの射撃会のことで、腹を立てているにちがいない。キャラコさんは、なんだか気がとがめてしようがない。ピエールさんのほうを見ると、ピエールさんは、すまして食事にとりかかろうとしている。
(行ってあげればいいのに)
 キャラコさんは、ひとりで気をもむ。
(きっと、ひとりで、さびしがっているのにちがいないわ)
 しかし、そんな出すぎたことはいわれない。自分が見舞いにゆくのはわけはないが、そんなことをしたら、いっそう、かんしゃくをつのらせるばかりだ。もだもだしているうちに、食事が始まる。
 朱肉《しゅにく》色の生雲丹《なまうに》のあとで、苦蓬《エストラゴン》をいれたジェリィの鳥肉が出てくる。それから、凍甜菜《カンタループ・グラッセ》。
 料理にあわせて、バニュウルとか、ボオジョレー酒とか、モルゴンなどという白や赤の葡萄酒がつがれる。料理も酒も凝《こ》りぬいたものばかりである。
 キャラコさ
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