なたがなさったのは、たいへんいけないことなんだから、あたしにおあやまりなさい! ……たった、一度でいいから!」
 人並はずれて愛想のいい、やさしいこの娘の、いったいどこに、こんなはげしいものがひそんでいたのだろう。ついぞ、荒《あら》い言葉ひとつ口から出したことがなかっただけに、このようすには、なにか底知れないようなところがあった。ピエールさんは、あっけにとられて茫然とながめていた。
 レエヌさんは、憎悪に満ちた眼差しでキャラコさんの顔をにらみつけると、息をはずませながら、甲走《かんばし》った声で、叫んだ。
「あたしが、……あたしが、あんたにあやまるんだって? ……あやまるわけなんかない。……死んだってあやまるもんか!」
 キャラコさんは、顎《あご》をひきしめて、もう一度しずかにくりかえした。
「たった一度でいいから、あたしにおあやまりなさい。あやまらないと、ここを動かさなくてよ」
「あやまるもんか!」
「あやまるまで、いつまでも待っているわ」
 キャラコさんは、まじろぎもしなければ、ものもいわない。五尺ほど間隔をあけて、レエヌさんの顔を見つめたまま甲板に根《ね》が生えたようになってしま
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