、なさびしい音をたてる。
枕元の水瓶《フラスコ》を見ると、水がすこしもなくなっている。眼を覚まして水が欲しくなったらこまるだろうとおもって、ハンカチでそっとレエヌさんの額の汗を拭うと、水瓶《フラスコ》をもって階下《した》へ降りて行った。
食堂を通りぬけて料理場のほうへ行こうとすると、そこの胡桃《くるみ》の食器棚の前に保羅がうつ伏せになって倒れている。
おどろいて、顔の上にかがみ込んで見ると、酒気と濡れた羅紗《らしゃ》から発散する鋭い臭《にお》いとが交り合って、ツンと鼻を刺す。枕元にウイスキーの瓶がいくつもごろごろ転がっていた。
昨夜《ゆうべ》、夜ふけちかく、自分が寝ている真下あたりで、机でも倒れたようなえらい音がしたのは、保羅が酔いつぶれて椅子からころげ落ちた音だった。
鎧扉の隙間からくるぼんやりとした朝の光が、たるんだような保羅の横顔のうえにさしかける。頬に絨毯《じゅうたん》のあとをつけ、寒そうにヒクヒクと身体を顫《ふる》わせている。額に手をあてて見ると、これも、ひどい熱だった。
キャラコさんは、水瓶《フラスコ》を持ってあがったついでに、羽根布団と枕をかかえてきて、そっと保羅の身体にきせかけた。
キャラコさんは、ルビンシュタイン先生のところへピアノの稽古《けいこ》に行っている同級《クラス》の友達から保羅の噂をきいたことがあった。
保羅は、時々、先生のところへやって来ては、沈鬱な、典雅《エレガント》なようすで、エリック・サティやダリウス・ミヨオやオーリックなどを弾いていた。近代|仏蘭西《フランス》の音楽にたいする理解と感受性にかけては、この日本にあの内気そうな無口な青年に及ぶものはひとりもないのです。ルビンシュタイン先生がいつもそうおっしゃるの、と、その友達が話してきかせた。
音楽にすぐれた才能をもち、どの青年よりも謙譲で優雅だったというその保羅さんが、市井《しせい》の無頼漢のように、床の上に酔いつぶれているのは、あさましいというよりは、なんともいえないはかなさがあった。
(このごろは、もう、ピアノなんかもよしてしまったのにちがいないわ)
食堂のとなりの客間《サロン》へはいって見ると、楽譜を取り散らした隅のほうの床の上に、ピアノが置かれてあった痕《あと》がはっきりと残っていた。そこに、三《さん》オクターヴほどの、ミシンのような恰好をしたオルガンがすえられてあって、反《そ》りかえった鍵盤の上に、曇り日の朝日が、ぼんやりした薄い陽だまりをつくっている。
キャラコさんは、踏板《ペダル》を踏んで、そっと鍵盤を押してみた。
オルガンは、ぶう、と気のめいるような陰気なうめき声をあげた。その音は、食堂で酔いつぶれている保羅さんの寝息といっしょになって、なんともいえぬ佗《わ》びしい階音《アルモニイ》をつくる。
キャラコさんは、説明しがたい深い憂愁の情にとらえられた。心は重く沈み、強い孤独の感じが襲いかかった。レエヌさんが、『不幸なあたしたち兄妹』といった言葉の意味が、説明もなしにそのままじかに胸にふれてくる思いだった。
キャラコさんは、やるせなくなって、逃げるようにオルガンのそばを離れて二階へあがって行き、足音を忍ばせながらレエヌさんの部屋へあがり込むと、そっと枕元に坐った。
レエヌさんは、熱が出てきたのらしく、眉の間に竪皺《たてじわ》をよせ、苦しそうにあえぎながら、おぼろな声で囈言《うわごと》をいっていた。
「……お兄さん、……お兄さん、……また、陽が暮れかかってきたわ。……情けないわねえ。……ああ、なんて淋しいんだろう。……胸の空洞《うつろ》の中へ潮がさしてくるような。……闇が魂を包み込んでしまうような、この、淋しい不安な感じ。……子供のときから、いくど悩まされたことだったでしょう。……ねえ、お兄さん、あなたもそうだといいましたね。……なんという、あわれな兄妹……」
キャラコさんは、レエヌさんの手を執《と》って、そっとゆすぶって見た。
「レエヌさん、……レエヌさん……」
レエヌは、ぼんやりと薄目をあけた。すっかり熱にうかされてしまって、譫妄《せんもう》状態に近いようなようすになり、空《うつろ》な視線をあてどもなく漂わせながら、のろのろした声で、切れぎれにつぶやきつづけるのだった。
「……それでも、ママが生きているうちは、まだしも生き甲斐があったわ。……学校の制服を脱ぎ捨てると、車座《くるまざ》になった潮くさい基督《エス》どもの盃に威勢よくウイスキーを注いで廻る。……あなたは、できたての自作の舞踏曲《ブウレ》を、酒場のぼろピアノが軋《きし》むほどに熱い息吹きで奏きたてる。……ミューズもアポロも大喝采《だいかっさい》。……プレジデント・フーヴアの楽長《シェフ・ドルケストル》が、あっけにとられて、盃《ヴエール
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