tを持ったままあんぐりと口をあいていましたっけね……」
「レエヌさん、……レエヌさん……」
「……ああ、気の毒なママ。……ママは、やはりあたしのことをあきらめ切れなくて、悲しがって死んでしまったのね。……ママが病気になって寝込んでしまったというあんたの手紙は、ヴァンクウヴァへ着いて一カ月目に受け取りました。……あたしは気がちがうかと思った。夢中になって、波止場まで駈け出したこともありました。……でも、歯を喰いしばって我慢しましたわ。……あたしは、もう、フランス人なんだと思って。……それが、日本を離れるときのママとの固い約束だったんですからね。……ママは、あたしたちに、しっかりした故郷をくれたがった。……立派なフランス人にすることがママのねがいだった。それで、辛い思いをしてあたしを手離しなすった。……ママのねがいにかけて、あたしは淑《しと》やかなフランスの娘になろうと、それこそ、死んだ気になってさまざまつとめましたの。……鯨骨《ほね》入りの窮屈な胸衣《コルセ》をつけて、ジュウル・ヴェルヌの教訓小説を読んだり、お弥撒《ミサ》を受けに行ったりしていました。……でも、やっぱり駄目でした。……あたしは、フランス人ではない」
キャラコさんは、聞いていられなくなって、椅子から立ちあがって、窓のそばまで逃げ出した。レエヌさんは、ああ、と深い、長い、ため息をついて、
「……日本のキモノを着ても日本人ではない。フランス語で話してもフランス人ではない。……このやるせなさを誰れも知らない。誰れも、察してはくれない。……気がちがわないのはまだしものことだったわ。……もう、どうなったってかまわない。なにか心の痺《しび》れるような出鱈目でもやらなければ、呼吸《いき》がつまりそうだ。……ねえ、お兄さん、キャラコさんに、そういってやって、ちょうだい。……お金なんか欲しいんじゃないんだ、って。あたしたち兄妹は、せめてこんなことでもしなければ生きてゆかれないんです、ってね」
とつぜん、嗚咽《おえつ》にむせびながら、
「キャラコさんなら、察してくれると思った。……あんないいひとですもの。きっとわかってくれると思った。……でも、キャラコさんも、やっぱり知ってくれなかった。……お兄さん、お兄さん、……キャラコさんは、あたしに、あやまれといいました。……あやまらなければ、ここを動かさない、って。……ああ、あの優しいひとまでが! ……悲しいわ。……死んだほうがましだ。……もう、生きてなんかいたくない。あまり、辛すぎますもの……」
レエヌさんの眼からあふれ出した涙が、枕の上へ滴《したた》り落ちて、ゆっくりと汚点《しみ》をひろげて行く。キャラコさんは、鎧扉へ額を押しつけて、泣くまいといっしんに我慢していたが、涙が勝手に流れ出して、いつの間にか頬をぬらしていた。
レエヌさんは、夢の中のひとのような響きのない声で、
「……お兄さん、あたしたちは、いったいどうなるのでしょうね。こんなに辛くとも、まだ生きていなければならないのかしら。……日本人でもなければ、フランス人でもない。あわれな黄白混血児《ユウラジアン》。……お兄さん、あたしね、ヴァンクウヴァにいるとき、夕方になると、いつも、スタンリーの波止場へ出かけ行って、岩壁に腰をかけて鴎《かもめ》をながめていましたの。……渚に引き上げられた破船の船尾《とも》や潮で錆びた赤い浮標《ブイ》の上を、たくさんの鴎が淋しそうに飛び廻っています。……鴎にも故郷がない。……海も故郷ではない、陸《おか》も故郷ではない。……空の下をあてもなく飛び廻っているばかり……。あたしたちも、この鴎と同じようなものだと思って、なつかしくてたまらなかったの。……この鴎たちも、せつない郷愁《ノスタルジア》を運んで行くところがないのだと思って、ながめているうちに悲しくなって、いつも、泣き出してしまうの……」
これが、レエヌさんのこころの秘密だった。自棄も、反抗も、無信仰も、みな、このやるせない絶望の中で熟成した不幸な気質なのだった。レエヌさんの意地悪も、強がりも、孤立も、奇矯《エクサントリック》なさまざまな振舞いも、今こそ、そのいちいちの意味がはっきりとわかるのである。
キャラコさんの、心はしみじみとうなだれる。この気の毒なレエヌさんをにらみつけて、立ちはだかっていた、自分のすさまじいようすを恥辱《はじ》と慙愧《ざんき》の感情で思いかえす。
キャラコさんは、手も足も出ないような心の無力を感じながら、低く、つぶやいた。
「……あやまらなければならないのは、あたしのほうよ、レエヌさん……」
底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
1978(昭和53)年1月31日
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