スら、あなたのご親族も世間も、正式に結婚することを望むでしょう。いわんや、物固い長六閣下におかれては、なんであろうと、うやむやにすますようなことには賛成なさらないでしょう」
キャラコさんは、きゅっと口を結んで相手をみつめてから、ゆっくりと、笑いだす。
「おやおや、希望しないのはあたしだけですか」
保羅は、そっぽを向きながら、
「キャラコさん、僕は新聞社へちょっとした原稿を送ってあります。それにはね、二人が駈け落ちするまでのいっさいのいきさつと心境が、筆記体でくわしく書いてあるんです」
「なるほど、たいしたもんね。……それで?」
「二人が潜伏している場所は、だいたいこのへんと臭《にお》わしてありますから、感のいい新聞記者なら二三日中に嗅ぎつけてここへやって来るでしょう。……僕とあなたは、こんな一軒家で発見される。当然、もう秘密の結婚をしていると思うでしょうからね」
「だれが、それを証明するの? あたしですか? それとも、保羅さん、あなたですか?」
レエヌが、甲高い声で、叫んだ。
「証人は、あたしよ。あなたと兄は、この春から秘密に結婚していたことを、婦人雑誌向きにちゃんと小説体で書いてあるの。……さっきの手紙よりも委曲《いきょく》をつくしているつもりよ」
枕の下から一通の角封筒をとりだすと、それを頭の上に振って見せた。
「ほら、ほら、これが、そうなの」
キャラコさんの肚《はら》の底から、生理的不快に似たものがこみあげて来た。
レエヌは、調子をはずした陽気な声で、
「……あたし、むかしからあなたを嫌いだったのよ。どこもここも模範だらけのあなたが憎らしくてしようがなかったの。いつか、やっつけてやろうと思って隙をねらっていたんだ。……ねえ、キャラコさん、あなたのように、お腹《なか》の中にいるときから、幸福《しあわせ》づくめのひともあるし、あたしたちのように、泥の中をはいずり廻っているような、こんなみじめな兄妹もあります。それに、こんどは、たいへんな財産を相続なすったそうで、お目出とう。……どこまでうまくゆくか知れないわね。……それで、すこしお裾《すそ》わけしていただこうと思って考え出したことなの。……あたしたちのような憐《あわ》れな兄妹の思いつきそうなことでしょう」
キャラコさんが、しずかに訊《き》きかえした。
「もし、あたしが、いやだといったら?」
レエヌは枕をつかんで、キャラコさんのほうへ、不気味に身体を乗り出すと、
「ねえ、キャラコさん。あなた、さっき門をあけた爺《じじい》を見た? ……あいつ、いま天然痘にかかっているのよ。真症《ヴァリオラ》なの、ちょうど膿疱《のうほう》期だから危ないわね。あなたのようなお嬢さんがだい好きだから、抱きつくかも知れないわ」
そして、勝ちほこったように、高笑いをした。
九
夜があけかかっていた。
キャラコさんは、もう、すっかり落ちついていた。
保羅が、新聞社へ原稿を送ってあるというのは本当だとしても、その方法はたいして成功しそうもなかった。信用のある新聞は、そんなことぐらいでたやすく動かされるはずはないし、ちょっと調査をしただけで、保羅の悪計だということをすぐ見ぬいてしまうだろう。
また、自分にしても、赤新聞が書き立てる醜聞《スキャンダル》を恐れなければならないような弱いところはすこしもなかった。
もともと、世間の評判などは、それほど価値のあるものだと思っていないし、そんなものぐらいで自分の価値が左右されるとも考えない。書きたてたければ、書き立てたって一向差し支えのないことだった。
しかし、そうだといって、いたずらに笑殺してしまうようなことは、あまり聡明なやり方だとは思われない。そんな意識の低いことではなく、二人の心をなだめ、充分にお互いの気持がわかり合えるようにしなくてはならないとかんがえていた。たぶん、それがいちばんいい方法なのであろうが、すっかりひねくれている二人の気持をどんなふうにしてやわらげたらいいのか、そのあてはなかった。
キャラコさんは、長椅子《ディヴァン》から身体を起こすと、足音を忍ばせながら、そっとレエヌさんの部屋をのぞきに行った。
頬のあたりに刺々《とげとげ》しいものがあるが、それを除くと、平和といってもいいようなおだやかな顔でしずかな寝息をたてていた。
これが、ゆうべ、あんな邪慳な口をきいたそのひとだとは、どうしても思えない。むかし、桜の花の散る校庭で、ひとり離れてしずかに読書をしていた、優しい礼奴《れいぬ》さんのようすが眼にうかぶ。あの時とすこしもちがわない顔だった。
近寄ってそっと、額に手をあてて見ると、かなりひどい熱だった。頬がポッと桜色になり、うっすらと汗をかいている。息をするたびに、どこかがピイピイと木枯《こがらし》のよ
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