前がいるから、それで、こんな騒ぎが起きるんだ、というような眼つきで、ジロリとキャラコさんの顔をながめてから、
「わしは、こんな騒ぎはまッぴらだ。……このへんでそろそろ退却しよう」
 と、大きな声でいうと、不機嫌そうに肩をゆすりながら、酒場《バア》のほうへ行ってしまった。
 一座の気分は、これですっかりしらけてしまった。アマンドさんだけは、てんで気にも止めていないらしい。新聞を下に置くと、ニコニコ笑いながら、眼鏡越しに一座をながめわたして、
「さあ、もう嵐はおさまった。かまわないから続けなさい。海の上の鴎《かもめ》というものは、いつまでも嵐のことなんぞ気にやんでいないものだ」

     五
 キャラコさんは、船室へ帰ると、すぐ寝床《ベッド》へはいったが、なかなか眠れない。
 快遊船《ヨット》から降りさえすれば、レエヌさんと無意味な対立などをしなくともすむし、エステル夫人やベットオさんのうるさい気持の反射なども感じなくともすむ。じぶんのほうはそれでいいが、そのために多少とも迷惑をこうむるひとたちのことをかんがえると、じぶんの感情にばかりまかせて簡単に行動するわけにはゆかない。
(そんなことをしたら、無理にこの快遊船《ヨット》へ誘ったイヴォンヌさんや山田氏が不愉快な目にあわしたということで、あたしにすまない思いをするだろうし、アマンドさんだって、少なからず恐縮するにちがいないし……。)
 それに、この快遊船《ヨット》の中で、じぶんだけがたった一人の日本人なので、いきおい、注目されたり、批評されたりしなくてはならない立場に置かれているのだと思うと、考えなしな行動はとりにくいのである。
 キャラコさんは、あまりものごとに屈託しないたちだが、さすがに、うっとうしくなって、うんざりしてしまう。
「ベットオさんばかりじゃない、あたしだって、こんなうるさいことはまッぴらだわ。今度ぐらいつまらない目にあったことは、まだなかったわ」
 丸い船窓から、水のような澄んだ月の光が斜めに床《ゆか》の上へさしこむ。
 キャラコさんは、海風《うみかぜ》にでも吹かれたら、すこしさっぱりするかも知れないと思って、寝衣《ねまき》を脱いで、キチンと服に着かえると、イヴォンヌさんに気づかれないように、そっと甲板《ウエル》のほうへあがって行った。
 みな船室へ引きとったと見えて、甲板《ウエル》には人影らしいものもなくて、ひどく広々としている。
 キャラコさんは、船尾のほうまで歩いて行って、派手な日除《ひよけ》の下の揺椅子《ロッキンング・チェヤ》の中に沈み込んだ。
 膚にさわらぬほどの海風が、気持よくそっと襟《えり》のあたりを吹いてゆく。
 薄い月の光で、海の面《おもて》がぼんやりとけむり、古沼《ふるぬま》のようにはるばるとひろがっている。空には白い巻雲《まきぐも》がひとつ浮いていて、眼に見えぬくらいゆっくりと西のほうへ流れてゆく。
 キャラコさんは、揺椅子《ロッキング・チェヤ》の中でのびのびと身体をのばしながら、巻雲のゆくえを眼で追っているうちに、こんな無意味な感情の狭間《はざま》の中で当惑していなければならない自分の境遇をばからしくてたまらなくなってきた。
「……他人《ひと》の気持をいたわるのは大切なことだけど、そのために、じぶんの意志や感情まで投げ出してしまうのは、あまりほめた話ではないわね。……何より、女のやさしさと卑屈とをはきちがえないようにするこったわ。……アマンドさんを恐縮させるのはお気の毒だけど、できるだけ正直にこちらの気持をうちあけて、朝のうちに快遊船《ヨット》を降りてしまうことにしよう。……イヴォンヌさんや山田氏のほうは、あまり閉口させなくともすむように、なんとかうまくやれそうだわ」
 甲板《ウエル》の遠いはしのほうで、人の足音がする。
 振りかえって見ると、ピエールさんだった。寝巻《ピジャマ》の上へ大きなトレンチコートを着て煙草を喫いながらゆっくりとこっちへやってくる。煙草の火が海風に吹かれて線香花火のように散る。
 ピエールさんは、すこし離れたところで立ちどまって、ジッとこちらをながめていたが、びっくりしたような声で、
「キャラコさんですね?」
 と、いった。
 キャラコさんが、笑いだす。
「ええ、あたくし。……人魚じゃなくてよ」
 ピエールさんが、微笑しながら近づいてくる。
「人魚でなくてしあわせでしたよ。もし、人魚だったら、ベットオ先生につかまって遠慮なしに解剖されてしまうでしょう。……それにしても、どうして今ごろこんなところにいらっしゃるんです。珍らしいこってすね」
「あたしが詩人だってことをご存知なかったのね? ピエールさん」
 ピエールさんは、おおげさに驚いたという身振りをして、
「詩人! ……おお、それは存じませんでした。射撃の名人が詩
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