らね。……レエヌさんのおっしゃったことは嘘じゃないわ」
 これで、ピエールさんがわびなくともすむことになった。アマンドさんが、遠くから、感謝と敬意のまじった眼ざしでキャラコさんにうなずいてみせる。
 元気のいい、がむしゃらなところもありそうなこの娘が、どんなこころでこんな不当な侮辱を忍んでいるのか、それがよくわかる。そのうえこのちっぽけな娘は、社交馴れた、最も聡明な夫人ほどにもうまくやってのける。ふしぎな娘だと思って、四方からキャラコさんをみつめはじめる。
 またとつぜん扉《ドア》が開いて、エステル夫人が、はばのあるがっしりした肩をそびやかすようにしてはいってきた。
 いずれエステル夫人がやって来るだろうという予感がみなの心にあった。たぶんレエヌさんは、エステル夫人のところへうったえに行くだろうし、そうなれば、夫人が黙って放っておくわけはない。果してだった。エステル夫人は、入口のところに立って、ごうじょうな気性をそのままに現わして、男のように腕組みをしながら、ジロジロとみなの顔をながめわたしている。だいぶ風向きが悪いらしい。
 エステル夫人は、感情を無理におさえつけているような声で、
「いったい、どうしたの?」
 と、切り出す。たれも返事をしない。結局、アマンドさんが、太刀《たち》うちを引き受ける。
「何がどうしたというんだね」
 たいへんおだやかに、こういう。アマンドさんの受け方はなかなか堂にいっている。長年のうちに、悍馬《かんば》のようなエステル夫人をなだめるコツをすっかり会得してしまったらしい。
「そんなところに立っていないで、お前も仲間へはいりなさい。いま迎えにやろうと思っていたところなんだ」
 エステル夫人が、はねかえす。
「よしてください、とぼけるのは。……ねえ、いったいどうしたの? どうしてレエヌをあんな目にあわせるんです。レエヌはわたしの部屋で泣いていますよ」
 アマンドさんが、両手をひろげる。
「うるさくて眠られないから、静かにしてくれというので、この通り静かにしている。……これ以上、どうにもしようがない。……いったい、なにが悲しくて泣くんだね」
「悲しいのじゃありません、怒っているのです」
「いよいよもってわからないな」
「あなたがたが、皆がかりで、レエヌを怒らせてしまったのです。どうして、あの娘ばかりいじめるの。……ねえ、兄さん、このごろのあなたのなさることは、すこし偏頗《へんぱ》だと思うんですがね。ひとのお嬢さんをちやほやするのもいいが、それならそれで、身内《みうち》のものも、もっとだいじにしたらどう?」
「ずいぶんだいじにしているつもりだ」
 エステル夫人は、チラリとキャラコさんのほうへ流眄《ながしめ》をくれて、
「おやおや。……あたしには、どうもそう思えませんがね。だいいち、ピエールが、いけない」
 ピエールさんが、ピアノのそばの椅子で、照れくさそうな顔をする。
「今度は私の番ですか、エステルおばさん」
 エステル夫人は、ピエールさんのほうへ向きなおって、
「ええ、そうですとも。あなたが、いちばんいけないんだ。じっさい、あなたの|新し好き《スノビスム》には困ってしまう。どうして、そう移りぎなんだろう。そんなことは、あんまりみっともよくないね」
 ピエールさんが、顔を赧《あか》くして、すこし、怒ったような声をだす。
「エステルおばさん、そういうあなたのなさりかただって、たいしてほめられはしませんよ」
 エステル夫人は、肚《はら》を立てて、踵《かかと》で強く床を踏む。
「あたしのことは放ってお置きなさい。なんであろうと、いうだけのことはいうんだから」
 ピエールさんが、とてもかなわないといったようすで、折れて出る。
「私が悪いならあやまりますが、いったいレエヌはなにが気にいらないというんです」
「頭痛がするといって寝ているのに、なぜひとりで放っといたりするんです。あれは、あなたの何にあたるひと?……今からそれじゃ、レエヌだってやるせながるのも無理はないでしょう。……とにかく、あたしの部屋へ来て、レエヌにおあやまんなさい」
「そんなことまで、あなたに指図《さしず》されなくてはいけないんですか」
「おや、大きな口をきくこと。なんでもいいから、あたしと一緒にいらっしゃい」
 アマンドさんが、眼顔《めがお》で、行ってやれ、と合図をする。ピエールさんが渋々と立ちあがる。
 エステル夫人は、またアマンドさんのほうへ向きかえって、
「ねえ、兄さん、あたしだって平和にやるほうが好きなんですよ。しかし、それにはそれだけのことをしてくださらなくては。……なにしろ、狭い船の中のことですからね。これは、けさもいいましたが、もういちど、ご注意までに申し上げときますよ」
 エステル夫人とピエールさんが出て行くと、ベットオさんは、お
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