室《サルーン》へはいりましょう」
すこし離れた船室の扉《ドア》がとつぜんにあいて、レエヌさんが顔をだした。閾《しきい》のところに立って、凍《こご》えたような眼でキャラコさんをにらみつけていたが、そのうちに、鶏の鳴くようなけたたましい声で叫んだ。
「ちくしょう、殺してやる!」
走り寄ってきて、
「……|恥知らず《アンファーム》!……すれっからし《インピュダンス》!」
と、わめきながら、手に持っていた短いロープの切れっぱしで、気がちがったように続けさまにキャラコさんの肩を打ちすえた。
キャラコさんは、ロープのしもとの雨の下で、一種|自若《じじゃく》とした面持ちでレエヌさんの顔を見上げていた。
(なるたけ、腹を立てないように……)
しかし、今度ばかりは、キャラコさんの忍耐はあまり役に立たなかった。生まれてからまだ一度も感じたことのないようなはげしい憤《いきどお》りの情が、酸のように、意志の力を腐蝕した。
(どんな事があってもあやまらせずにはおかない!)
レエヌさんが、息を切らして打つのをやめると、キャラコさんは、しずかに立ちあがって、秋霜のような威厳で命令した。
「レエヌさん、あなたがなさったのは、たいへんいけないことなんだから、あたしにおあやまりなさい! ……たった、一度でいいから!」
人並はずれて愛想のいい、やさしいこの娘の、いったいどこに、こんなはげしいものがひそんでいたのだろう。ついぞ、荒《あら》い言葉ひとつ口から出したことがなかっただけに、このようすには、なにか底知れないようなところがあった。ピエールさんは、あっけにとられて茫然とながめていた。
レエヌさんは、憎悪に満ちた眼差しでキャラコさんの顔をにらみつけると、息をはずませながら、甲走《かんばし》った声で、叫んだ。
「あたしが、……あたしが、あんたにあやまるんだって? ……あやまるわけなんかない。……死んだってあやまるもんか!」
キャラコさんは、顎《あご》をひきしめて、もう一度しずかにくりかえした。
「たった一度でいいから、あたしにおあやまりなさい。あやまらないと、ここを動かさなくてよ」
「あやまるもんか!」
「あやまるまで、いつまでも待っているわ」
キャラコさんは、まじろぎもしなければ、ものもいわない。五尺ほど間隔をあけて、レエヌさんの顔を見つめたまま甲板に根《ね》が生えたようになってしま
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