そろ昼の支度にとりかからなくてはならない。ご飯がたきあがると、せっせとお弁当をつくり始める。おむすびにしたり、海苔《のり》巻きにしたり、幕の内にしたり、いろいろである。
 お弁当ができあがると、番茶の薬鑵《やかん》をさげて、小屋のうしろの崖の上へあがってゆき、矢車草のなかに坐って谷底の合図を待っている。河原にいる山下氏が崖の上へ片手をあげる。これが、昼飯《ひる》にしようという合図なのである。キャラコさんは、それを見るといっさんに谷底へ駆けおりる。……。
 鋒杉《ほこすぎ》の稜線《りょうせん》のうえに、まっ青な空がひろがり、それを突きさすように高く伸びあがった檣《マスト》の頂きで、虹色の旗がヒラヒラと風にひるがえっている。
 あの次の朝、キャラコさんが食料をさがしに裏の崖へのぼって行ったとき、この檣《マスト》を発見した。むかし、なにに使ったものか、崖のギリギリのところに、ちょうどナポリの笠松《かさまつ》のようなようすで、すっくりと立っている。キャラコさんは、ふと思いついて、それに、虹色のマフラーを旗のように揚げた。
 これは、なにによる感情なのかじぶんでもわからなかった。ただ、高いところでひるがえる旗のようなものがほしかったのである。
 家政的《ドメスチック》なことでは、あまり、感心したような顔をしない四人の科学者たちも、キャラコさんのこの思いつきには、心から賛同した。原田氏が、いった。
「すこし参りかけたとき、谷底から小屋の旗を見あげると、ふしぎに元気が出てくる」
 キャラコさんの頭のうえで、その虹色の旗が、この小屋の五人の希望の象徴のように、力強い音をたててハタハタとひるがえっている。
 もう、正午《ひる》ちかいのに、なかなか合図がない。キャラコさんは、檣《マスト》の下まで行って、額に手をかざして谷底をのぞき込む。
 渓流にそった広い河原は、陽の光でいちめんに白くかがやき、その白光のなかで、四人が崖を削ったり、石をくだいたり、めざましく働いているのが蟻のように小さく見える。槌《つち》で石をうつ音が、いくつもいくつも山彦をかえしながら気持よく響いてくる。
 カチン、カチンという音は、いつまでたってもなかなかやみそうもない。腕時計を見ると、もう一時近くになっている。
 キャラコさんは、そろそろ心配になってくる。
「また、ひるご飯を忘れそうだわ」
 大きな声で、おうい、と叫びたくなるのをいっしんにがまんする。
 四人は、ひと区切りがつくまで仕事をやめない。それを中断されるとあまり機嫌がよくない。キャラコさんはそれを知っているので、決して邪魔をしないようにしている。
 キャラコさんは、矢車草の花の中へ坐って、しんぼうづよく、いつまでも待っている。
 ようやく、槌《つち》の音がやむ。谷底から、おーい、という声がきこえる。谷底をのぞきこんで見ると、四人が崖の上をふりあおぎながら手をあげて叫んでいる。キャラコさんは、勢いこんで、いっさんに崖道を駆けくだる。
 五人は、河原の涼しいところに坐ってお弁当をひらく。
 四人とも、ひどく腹をすかしていてむやみにたべる。やっこらしょと下げてきたたくさんのおむすびが、たちまちなくなってしまう。
 午飯《ひる》がすむと、ちょっと一服する。誰も大してはずんだようなようすは見せないが、すくなくとも、不愉快そうではない。煙草の煙りをゆっくりと吹きだしながら、重い口で冗談めいたことをボツリボツリといい合う。以前にくらべると、これだけでもたいへんな変化だった。
 三枝氏が、むずかしい顔をして考え込んでいたが、何か重大な感想でも打ち明けるような口調で、
「要するに、われわれは、毎日ピクニックをしているようなものだね」
 と、いった。ピクニックという言葉がおかしかったので、みな、クスクス笑いだした。
 三枝氏が、まじめな顔でつづけた。
「……これが、単なる昼食《ひるめし》でない証拠に、こんなふうにしていると、なんとなく歌でもうたい出したいような気持になる。奇態《きたい》なこともあればあるものだ。……たしかに、なにか変調が起きたのにちがいない」
 キャラコさんは、お弁当の殻《から》の始末をして崖の上にあがってゆく。が、夕方までぼんやりしているわけにはゆかない。三日に一度、往復四里の道を歩いて初繩《はつなわ》の聚落《しゅうらく》まで食糧の買出しに出かけなければならない。バスに乗って別所まで出かけることもある。四里といっても、地震で壊されたひどい石ころ道ばかりなので、夕飯《ゆうめし》の支度に間に合うように帰って来るのはなかなか楽ではない。歩くことなら決してひとに負けないキャラコさんも、買出しから帰ってくると、いつも汗みずくになって息を切らしている。
 夕飯《ゆうめし》がすむと、四人はすぐに鉱石の分析試験にとりかかる。
 キャラコさんは、手早く食事のあと片づけをすますと、すぐ白い前掛けをつけて実験室へ現われてくる。
 一週間もたたないうちに、キャラコさんは分析実験の段取りをすっかり覚えてしまった。
 キャラコさんは、額にむずかしい皺《しわ》をよせながら分析台のそばに立って、せわしそうに動く四人の手を注意深くながめている。そして、適当な時に、ツイと分析皿を差し出したり、アルコール・ランプに火をつけたり、無言で差し出す手にピンセットを渡してやったりする。
 キャラコさんはひとことも口をきかないばかりか、大きな呼吸《いき》さえしないようにしているので誰れもキャラコさんがそばに立っていることに気がつかない。仕事の区切りがついて、ひと息いれるとき、いままで円滑《スムース》に仕事がはかどっていたのは、キャラコさんが手助けをしていてくれたお蔭だということを知ってびっくりしてしまう。黒江氏が、いう。
「ほほう、またキャラコさんだったんですね」
「ええ、そうよ、あたしですわ。幽霊ではなくてよ」
 三枝氏が、感嘆したような声をだす。
「たしかにそれ以上ですよ。……僕は原田がそばにいるのだとばかし思っていた」
 山下氏が、生真面目な表情で、うなずいた。
「キャラコさんは、たしかに、研究室の学生よりもうまくやる」
 廿分ほど休憩すると、四人は仕事の続きにとりかかる。キャラコさんは、また無言で働きだす。
 十一時になると、四人は実験を切りあげて寝床へゆく。
 キャラコさんは、みなに、おやすみ、をいってじぶんの寝床のある『食堂』までひきさがると卓の上に立てた薄暗い蝋燭の光の下へノートをひろげて、低い声で、
「……Au……金、……CuFeS2[#「2」は下付き小文字]……黄銅鉄、……Ag2[#「2」は下付き小文字]S……輝銀《きぎん》鉱……」
 と、二時ごろまで、鉱石の成分式の暗記をやっている。

     六
 気むずかしい顔をした楽しいあけくれが、こんなふうに半月ほどつづいた。みな、見ちがえるように健康そうになり、互いの顔をながめては呆気《あっけ》にとられるのだった。
 ところで、キャラコさんは、やはりこの小屋に必要な人間だった。人生にとって、『女の手』というものがどんなに大切なものか証明されるような事件が起こった。
 夜なかに、こっそり起きて分析試験をしていた黒江氏が、誤って吸管《すいかん》の炎を咽喉《のど》に吸いこんで大怪我《おおけが》をしてしまった。
 黒江氏は炎などを吸い込む気はなかった。
 夜がふけて、しんしんと小屋の中が冷えてくると、例の咳がはげしくなってくる。自分の咳で仲間やキャラコさんの眠りをさまたげまいと思って、がまんにがまんをかさねる。突然、咽もとへ突っかけて来た咳の発作をこらえようとして、無意識に息をひいたとたん、吸管の炎を深く吸いこんでしまったのである。
 たいへんな怪我だったけれど、黒江氏は、みなを驚かすまいと思って、叫び声ひとつあげなかった。
 板壁を伝ってそろそろと扉《ドア》のほうへはっていったが、とうとう力がつきて、戸口のところで気を失ってバッタリと倒れてしまった。清水《しみず》で咽喉《のど》を冷やし、そっと自分で始末してしまおうと思ったのである。
 最初に発見したのはキャラコさんだった。
 キャラコさんは眠っていたのではなかった。いつものように食卓の上に蝋燭を立てて、せっせと鉱物学の常識を養っていた。入口の扉のほうで何か重いものが倒れたような音がしたので、そっと出て来てみるとこの始末だった。
 キャラコさんは、たいへん沈着だった。
 額に手をあてて見ると、たいして熱はなかったが、もし、脳溢血《のういっけつ》で倒れたのでもあったら、へたに動かしたらたいへんなことになると思って、そのままそっと床《ゆか》に寝かしたまま、しずかに、三人を呼び起こした。
「すみませんけど、ちょっと、起きてちょうだい」
 三人は、すぐ眼をさました。が、キャラコさんがいつもと変わらないようすをしているので、こんなたいへんなことが起きているとは、とっさに気がつかなかった。
 山下氏だけは、何かけはいを感じて、キュッと顔をひきしめながらたずねた。
「どうしました、キャラコさん」
 キャラコさんが、しっかりした声で、いった。
「ちょっと、黒江さんのようすを見てちょうだい。ひどく悪いのだったら、これからすぐ医者を迎えにゆかなくてはなりませんから……」
 そういっておいて、じぶんは急いで黒江氏の寝床をつくり、洗面器に清水《しみず》を汲《く》んでタオルと一緒に枕もとへそなえて置き、いつでも医者を迎いに出かけられるように甲斐甲斐しく身支度をしはじめた。
 黒江氏は、間もなく意識をとり戻した。ぼんやりした眼つきで皆の顔を見廻していたが、頭がはっきりすると、吸管の炎を吸い込んでしまったのだと手まねで説明した。
 ようやく原因はわかったが、どの程度の負傷なのかわからないし、どういう手当をすればいいのか見当がつかないので、ともかく医者を呼んでくることがさしあたっての急務だった。
 キャラコさんが、ちゅうちょなく立ちあがった。
「あたし、行ってきますわ」
 時計を見ると、夜なかの二時だった。小雨がふり、それに、風が出かけていた。
 三枝氏がおどろいて、とめた。
「冗談じゃない、キャラコさん。こんな夜ふけに、あなたのようなお嬢さんをひとりでやられるものですか。私が行きます」
「だいじょうぶよ、心配しないでちょうだい。そんなことをなすったら、あなたあしたの仕事に差し支えるでしょう。あたしは遊んでいるんですから、あたしが行くのが当然よ。こんな時のために、あたしがここにいるんですわ」
 そして、黒江氏の顔をのぞき込むようにしながら、いった。
「すぐ医者を呼んで来ますから。元気を出していてちょうだい」
 黒江氏は、首をふって、いやいやをした。急に気が弱くなって、眼をしっとりとうるませていた。キャラコさんに、そばにいてもらいたいのらしかった。
 山下氏が、いつになく懇願するような調子で、いった。
「医者を呼びに行くことはわれわれにだってできますが、介抱するほうはわたしどもではうまくゆきそうもないから、あなたは、どうか、ここにいて、こいつを見ていてください。……黒江にしたって、そのほうが心丈夫だろうし……」
 キャラコさんは、素直にうなずいた。
「あなたが、そうおっしゃるんでしたら、そうしますわ」
 カバード・コートを脱いで、袖《そで》をまくりあげると、酢酸をたらし込んだ冷たい水で、せっせと黒江氏の咽喉《のど》を湿布《しっぷ》しはじめた。
「黒江さん、あなた、熱もないんですし、それに、そんなふうに、しっかりと眼をあいていられるでしょう。けして、たいしたことはありませんの、すぐ癒《なお》りますわ。災難なんて部類にもはいらないくらいよ」
 キャラコさんの声の中には、ひとの心をなだめすかすような、明るい、しっかりした調子があって、それをきいていると、この世の中に、クヨクヨしたり、思いわずらったりするようなことは何ひとつないのだというようなのどかな気持になるのだった。
 朝の九時ごろになって、三枝氏が宇部《うべ》から医者をつれて来た。
 医者の意見では、差し当って火傷面が融
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