いってくるなんてことはとても期待ができない。いずれにしろ、釣るとか捕まえるとかするほかはないのだが、綸《いと》もなければ鈎《はり》もない。網の代用になるようなものも思いつかない。
 キャラコさんは、無念そうな顔をして水の面《おもて》をにらみつけていたが、なかなかいい考えがうかんで来ない。
「……困ったわね。こんなたいへんなご馳走が目の前で泳いでいるというのに、手も足も出ないというのはあまり情けないわ。なんとかならないものかしら」
 虹鱒は、キャラコさんをからかうように、すぐ眼の前で水の面《おもて》へ飛び出して、ボシャンと大きな音をたてて水の中へ落ち込む。キャラコさんは、腹を立てる。
「そんなふうにたんと馬鹿にしていらっしゃい。いまに、つかまえてあげるから……」
 キャラコさんは、川下のほうを眺めながら、腕を組んで、かんがえる。
「……釣鈎《つりばり》も網もないとすると、簗《やな》をつくってかいぼりするよりほかないようね」
 水はせいぜい膝がしらぐらいの深さしかないが、五|間《けん》ほどの幅で、岩にせかれながら相当早い瀬《せ》をつくって流れている。ちょっと手軽にゆきそうもない。
「たいへんだ。この大きな川をかいぼりするのかしら……」
 しかし、それより方法がないとなると、やっつけるよりしようがない。
 キャラコさんは、だいたい思いきりのいいほうだから、いつまでもグズグズ考えていない。スカートの裾をたくしあげると、すぐさまかいぼりの実地検分にとりかかった。
 丹沢の地震のとき、このへんもだいぶひどくやられたとみえ、凝灰石《ぎょうかいせき》の大きな岩がいくつも川の中へころげ落ちて、ところどころで流れをせきとめている。その岩と岩との間を簗《やな》でふさいでゆけば、どうにかかいぼりができそうな工合だった。
 キャラコさんは、物置小屋に古い葦簀《よしず》があったのを思い出し、小屋まで駆け戻ってそれをひと抱えかかえて来た。
 おもしろいどころではない。キャラコさんは、もう一生懸命だった。四人にこのみごとな虹鱒を喰べさせてあげたいという思いで、胸のしんが痛くなるほどだった。
 膝までザブザブ水の中へはいって、岩と岩の間へ葦簀を張って、その裾のほうを石でしっかりととめて行った。
 中瀬《なかせ》のところは流れが早くてたびたび失敗したが、いくども根気よくやり直してどうにかやりこなし、魚を追い詰められるように、岸のところへ古い蛇籠《じゃかご》と木の枝を沈めて※[#「竹かんむり/奴」、第4水準2−83−37]《ど》のようなものをつくった。
 二時間ばかりかかって、簗《やな》を張り終えると、ずっと川上から流れの中へ入って、真剣な顔つきをしながら、そろそろと魚を追いおろしにかかった。

 夕靄《ゆうもや》がおりるころになって、四人が小屋へ帰ってきた。
「お帰りなさい。たいへんだったでしょう」
 キャラコさんは、小屋の入口まで走り出してひとつずつ鉄槌《スレッジ》を受け取ると、四人を清水《しみず》のわいているところへ連れて行った。
「顔と手を洗って、ちょうだい」
 四人はよわよわしい反抗の身ぶりを示したが、ニコニコ笑いながら立っているキャラコさんのなんともいえない愛想のいいようすを見ると、抵抗し切れなくなったとみえて、観念したようにしぶしぶ顔を洗いはじめた。
 大男の原田氏は、狼狽のあまり、たったひとつしかないキャラコさんの石鹸を手からすべらせて、どこかへなくしてしまった。
 キャラコさんは、四人を台所兼用の『食堂』へ案内して、自然木《しぜんぼく》でつくった大きな食卓のまわりに坐らせた。
 主座には、色のさめたような蒼白い顔をした山下氏がついた。その右に、小さな円い眼をした縮れ毛の三枝氏。その向いが、どっしりと坐りのいい頑丈な原田氏。その隣りに、髯さえも悲しげな、しょっちゅう咳ばかりしている黒江氏が坐った。四人は、小屋の中があまりきれいになっているので、当惑したような顔つきで、眼のすみからジロジロと見まわしていた。
「思うようなことができませんでしたけど、どうぞ、どっさりあがって、ちょうだい」
 キャラコさんが、すこし上気したようなようすで、食卓のうえの白い布を取りのけた。
「ほう!」
 四人は、思わず、吐息とも嘆息ともつかぬ低い叫び声をあげた。
 食卓の上には、冷静な科学者の眼をも驚かすほどのすばらしいものがのっていた。
 かたちのいい川魚が、金色のころもをつけて、エナメル塗りの白い分析皿の上でそっくりかえり、現像用の大きなパットの中には、緑色の新鮮なサラダが山盛りになっている。そのとなりで、赤くゆであげられた海老《えび》のようなものが威勢よく鋏《はさみ》をのばし、山蘭《やまらん》の花をうかせたどろりとしたスープが手《て》コップの中で湯気《ゆげ》をあげている。コッフェルの蓋《ふた》には、薄い褪紅色《たいこうしょく》の木の実のようなものが山盛りになっている。……スープから|食後の果物《デッセエル》までのいろいろな喰べものが、蝋燭の光の中で鮮かな色をしておし並んでいた。丹沢の奥の、窓ガラスもないような破小屋《あばらごや》の中に、こんなめざましいご馳走が並んでいるなどというのは、まるで、夢の中の出来事のようだった。
 原田氏が、おびえたような顔で、
「これは、たいへんだ」
 と、つぶやいた。
 黒江氏は、感動して何かいいかけて、ひどく咳にむせんだ。
 三枝氏は、小さな眼をパチパチさせながら呆気《あっけ》にとられたようにぼうぜんと食卓の上をながめていたが、顔をふりあげてキャラコさんの顔をみつめると、低い声でたずねた。
「これは、いったい、どうしたというご馳走なんですか?」
 どういう手段と経過によって、こんな思いがけない結果に到達したのか、そこのところが知りたいという学者らしい好奇心を起こしたのだった。
 キャラコさんは、額ぎわまであかくなって、夢中になって説明した。
「……分析皿の魚は川にいた虹鱒を、乾麺麭《かんパン》をくだいた粉《こ》にまぶして油で揚げたもので、このサラダは、沢に生えていた水芹《クレッソン》を酢と油であえたものですわ」
 三枝氏が、納得しない顔をした。
「でも、こんな山ン中で、フライの油などあるわけはないが……」
「それはね、測量機械をふくオリーブ油を少々拝借したのですわ」
「ほほう。……それで、酢なんかは?」
「分析の実験にお使いになる酢酸を、ひとたらしほど拝借しましたの」
「なるほど!」
「いけませんでしたかしら……」
 三枝氏は、へどもどしながら、
「いや、結構です、結構です。……いけないなんてことはない。毒薬でさえなければ、何を使ってくだすっても結構ですが、それはそうと、この蟹《かに》と海老《えび》の合の子のようなのは、いったい何者ですか」
「これはね、有名な蜊蛄《ざりがに》よ。……日本の食通がひどく珍重するんですって。あたし、日本アルプスの山のホテルでいちどいただきましたわ。となりのテーブルにフランス人がいましてね、これが皿に盛って出ると、エクルビース、エクルビース! といって夢中になってよろこんでいましたわ。フランスでも、たいへんいきなものになっているんですって。……でも、どんなふうにお料理するのか知りませんから塩うでにしましたの。……それから、お砂糖がかかっているのは裏山の木苺《きいちご》で、手《て》コップにはいっているのは山女魚《やまめ》のスープです。たった一匹しか簗《やな》へはいってこなかったもんですから、こうするよりしようがありませんでしたの」
 そういって、丁寧に会釈をすると、
「あたしたちの年ごろの娘のお料理なんていうと、一般には、あまり信用されないのが普通のようです。なかには、ひどくおびえる方もありますわ。……でもね、どうぞ、恐がらずに喰《あが》ってちょうだい。あまりひどいことにならないだろうってことだけは、自信をもって申しあげますわ」
 原田氏が、ひどく固くなってフォークを取りあげた。
 三枝氏は、胸を張って、
「えへん」
 と、しかづめらしい咳ばらいをした。黒江氏は、何から手を出したらいいのかというふうに、キョトキョトと両隣りのやり方をぬすみ視《み》した。
 さすがに、山下氏がいちばん冷静だった。手《て》コップを取りあげてゆっくりとすすりはじめた。
 破小屋《あばらごや》の、ふしぎな晩餐がはじまった。
 四人ながら戸迷ったようなようすをし、食べものの上へ深くうつむいて、互いに顔を見られないように用心し合うのだった。
 半年ぶりで人間らしい食事をするというのに、みな、むっつりと頑固におし黙って、さもいやいやそうに喰べるのだった。
 ところで、どうしたというのだろう。
 ことさららしく顔をしかめているのに、みなの頬骨《ほおぼね》のうえのところに美しい血の色がさし、さながら輝きだすようにさえ見えるのである。
 分析皿にも、現像のパットにも、何ひとつ残らなかった。あんなに山盛りになっていたサラダも虹鱒のフライも、朝日に逢った淡雪《あわゆき》のようにどこかへ姿を消してしまった。特大のコッフェルで炊《た》いたご飯が、ほんの申し訳ほど底に残っただけだった。キャラコさんは、乾麺麭《かんパン》でもかじって我慢するよりしようがないことになった。
 黒江氏が、申し訳なさそうな声で、いった。
「こりゃ、どうも……、あなたのぶんまで侵略してしまったようですね」
 キャラコさんが、笑いだす。
「いいえ、そんなことはありませんわ。あたし、手廻しよく、さっきすまして置きましたの」
 食事がすむと、熱いチョコレートまで一杯ずつ配られた。
 四人は、チョコレートのはいった手《て》コップを取りあげると、這々《ほうほう》のていで実験室まで引きさがって行った。

 黒江氏が、チョコレートをすすりながら、遠慮がちに、つぶやくような声で、いった。
「……ともかく、あのお嬢さんに、家政と料理の天分があるということだけは、認めてもいいわけだね」
 三枝氏が、同じような調子で、こたえた。
「……そのほうでは、たしかに良識《フェルニンフィテッヒ》だよ。こういう種類の快楽は、われわれの仕事の邪魔になるとしてもだな」
 原田氏が、怒ったような大きな声を出す。
「きいたふうなことをいうな。……ご同よう、下宿の女中と、研究室の小使いの庇護《ひご》のもとにいるだけで、ああいう女性の行き届いた心づかいなどを受けたことはかつて一度もないんだから、それが仕事の邪魔になるかどうか、経験として語りうる資格のあるやつは一人だっていやしないんだ。……ところで、おれの感想を率直に述べると、おれは、非常に愉快だった。……喰いもののことなんかいってるんじゃないぜ。……はじめての経験なんで、うまく感じをいいあらわすことはできないが、とにかく、呆気《あっけ》にとられるくらい愉快だった。……なんではあれ、見ず知らずのお嬢さんにこんなに親切にされて、それが感じられないんじゃ、諸君は、相当な非人間《インユウメン》だぞ」
 山下氏は、唇のはしにおだやかな微笑をうかべながら黙ってきいていた。かくべつ、原田氏の意見に反対するようなそぶりはしなかった。

     五
 毎朝、キャラコさんは、まだ東が白まないうちに起きあがる。火を焚《た》きつけて朝のご飯をしかけると、眠っている四人の眼を覚まさないように、手早く、しずかに部屋の中を掃除する。まるで自分の心の中のように部屋を掃く。どんな隅でも掃き落とさない。
 四時半には、小屋の中がさっぱりとなっている。掃除がすむと、鉱山《やま》でつかう道具をそろえて、すぐ出かけられるようにしておく。五時には台所の食卓の上で、味噌汁とご飯が湯気《ゆげ》をあげて山へ行く四人を待っている。五時になると、四人がいっせいに起き出す。朝飯《あさはん》を喰べている間にサッサと寝床を片づけ、寝袋《スリーピング・バッグ》をよくたたいて戸外《おもて》へ乾《ほ》す。四人が出かけてゆくと、分析台の掃除にとりかかり、それがすむと洗濯をしたり繕《つくろ》いものをしたりする。十時になると、そろ
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