合するような危険はないが、こんなところでは手当も充分ゆきとどかないだろうから、町までおろして入院させたらどうかということだった。
 ところで、黒江氏のほうは、この小屋から出てゆくことをどうしても承知しないのだった。じぶんをひとりだけ町へおろすようなことはしてくれるなと哀願した。とりわけ、行き届いたキャラコさんの介抱を受けられなくなるのが心細いのらしかった。
 ぜひそうしなければならぬというのでもなかったので、病人の望むようにさせることになった。
 黒江氏は、キャラコさんが、ちゃんとじぶんの枕もとに坐っているのを見届けると、安心したようにこんこんと眠りはじめた。
 怪我のほうもそうだけれど、こんな折に休養と栄養を充分とらせて健康を回復させてあげたいとかんがえて、その思いだけでキャラコさんの心はいっぱいだった。
 まだ重湯が通るぐらいなので、元気のつくような食べものを喰べさせられないが、せめてさっぱりさせてあげようと思って、倒れたときのままの肌衣《シャツ》と靴下をはぎとりにかかった。
 黒江氏は、この地球上にどこにも身の置きどころがないというふうに身体を固くしながら、ささやいた。
「ひどく、よごれていますから……」
「ですから、サッパリしたのと取り換えましょうね」
「でも、……どうか、よしてください」
「じゃ、せめて、靴下だけでもとりましょう」
「しかし、きっと、ひどく臭うでしょうから……。このままにして置いてください」
「どうしても、いけませんの」
「死ぬよりつらいから、どうか、このままにしておいてください」
 ところで、小屋の災難は、これだけではすまなかった。

 一日において、その次の日、こんどは原田氏が落石の下敷きになって右足をつぶしてしまった。
 その日、三人は支柱のない危険な廃坑の中で働いていた。夕方ちかいころ、三人のすぐ横の岩盤が、きしるような妙な音を立てた。
 これが、災難のキッカケだった。根元のところから始った亀裂《きれつ》が、布を裂くような音を立てながら、眼にもとまらぬ早さで電光《いなずま》形に上のほうへ走りあがってゆき、大巾《おおはば》な岩側が自重《じじゅう》で岩膚から剥離《はくり》しはじめた。
 原田氏は、二人より比較的入口の近いところにいた。
 妙な音がするのでそのほうへふりかえって見ると、大きな岩側が、今まさに二人の上に倒れかかろうとしている。
 原田氏は、とっさに身をひるがえすと、二人のそばへ飛んでいって、岩側と二人の間に自分の躯を差しいれた。
 屏風倒《びょうぶだお》しに倒れて来た幅の広い岩側は、牛のような頑丈な原田氏の肩でガッシリと防ぎとめられたとみえたが、それも束の間のことで、原田氏は岩盤に押されて海老のように躯をおしまげられてしまった。原田氏の頸《くび》に、打紐《うちひも》のような太い血管がうきあがり、顔は朱《しゅ》を流したようにまっ赤になった。
 山下氏と三枝氏は、原田氏のそばへ駆けよって、力を合わせて落盤を支えようとすると、原田氏は、切れぎれに叫んだ。
「逃げろ! おれの股《また》の下をくぐって!」
 二人は、原田氏を見捨てて逃げ出す気にはどうしてもなれなかった。一緒になって岩につかまっていると、原田氏は、地鳴りのような声でほえたてた。
「馬鹿野郎! 俺を殺す気か。……君達が逃げ出せば、俺も助かるのだ。早く、俺の股の下を!」
 原田氏は、そういうと、何とも形容のつかぬうなり声を出しながら、肩の岩盤を押しかえしはじめた。
 二人は、すぐその意をさとって、いわれた通りに原田氏の股の下をくぐりぬけて入口の方へ駆け出した。
 原田氏は、二人が無事にぬけ出したのを見ると、肱《ひじ》と肩を使って微妙に身体をひねりながら、恐ろしい重さでのしかかってくる岩盤の桎梏《しっこく》のしたからツイとすりぬけた。
 そこまでは、たしかにうまくいったが、急に支えをはずされた岩盤は、えらい速さで洞道《どうどう》の上に倒れかかり、まさにはい出し終わろうとしている原田氏の右の足首をおしつぶしてしまった。
 原田氏は、膝《ひざ》から下を血みどろにして、三枝氏におわれて小屋へ帰って来た。
 この時も、キャラコさんは、たいへんに沈着だった。
 分析台の上に寝かされた原田氏の足首が石榴《ざくろ》のようにグズグズになり、はじけた肉の間から白い骨があらわれ出しているのを見ても顔色ひとつかえなかった。その度胸のよさといったらなかった。
 山下氏と三枝氏が、気ぬけがしたようにぼんやり突っ立っているうちに、キャラコさんは鋏《はさみ》でズボンを切り開き、手早く清水《しみず》で傷口を洗うと、左手でギュッと原田氏の脚《あし》をおさえながら沃度丁幾《ヨードチンキ》を塗りはじめた。
 原田氏が、牛のような声でほえ出した。
「ああ、灼《や》けるようだ。気が遠くなる」
 蒼ざめた額に玉のような汗をかき、身体じゅうを痙攣《けいれん》させながら悲鳴をあげた。
「もう、よしてくれ。足なんかいらないから、もう、よしてくれえ。死にそうだ」
 キャラコさんは、やめない。しっかりした声で、激励する。
「もう、一、二分。……すぐすんでしまいますわ。もう、ほんのちょっと!」
 そういう間も手を休めずに、セッセと沃度丁幾《ヨードチンキ》を塗る。
 原田氏は、ありったけの力をふりしぼって叫び立てる。
「もう、よしてくれ!……おれの足へそんなものを塗ったくっているのは誰なんだ!……おい、誰だってえのに!」
 キャラコさんが、手を動かしながらこたえる。
「あたしよ。……もう、ちょっとだから我慢してちょうだい」
 原田氏が、急に黙り込んだ。もう、うんともすんとも言わなかった。頭をまっ赤にふくらせ、ギュッと歯を喰いしばって、とうとう我慢し通してしまった。

 二人が病床についてから、もう、一月近くになる。
 この六つめの山も、今までのそれと同じように、あまり好意のある反応を示さなかったが、山下氏と三枝氏は、たゆむことなく、毎日、朝はやく谷間へ降りて行った。
 夕方になると、二人は疲れたようなようすをして小屋へ帰ってくる。
 原田氏は、
「今日は、どうだった?」
 ときく。黒江氏も、ささやくような声でようすをたずねる。
 すると、山下氏は、判《はん》でおしたように、
「いいほうだ」
 と、かんたんにこたえた。
 キャラコさんも黒江氏も原田氏も、山下氏がそういう以上、鉱山《やま》はすこしずつうまく行っているのだろうと思っていた。ところが、それは嘘だった。
 それから、また五日ほどたった夕方、遅くまで二人が帰って来ないので、河原まで迎いにゆくと、二人は鉱坑のそばの石に腰をかけて、白い夕靄《ゆうもや》のなかでこんな会話をしていた。
 靄の向うで、つぶやくような山下氏の声が聞える。
「いよいよ、この山ともお別れだ」
 ながい間《ま》をおいてから、三枝氏の声が、こたえた。
「そう、いろいろなものとお別れだ」
「いろいろなものに……」
 山下氏としては、珍しく感情のこもった声だった。
 また、ポツンと間があく。渓流《せせらぎ》の音が、急にはっきりと聞えだす。
 山下氏が、つづけた。
「われわれの労苦がむくいられることなどは、すこしも期待していなかったのに、思ってもいない方法で、感謝された。……かりに、神というものがあるならば、神様とは、なかなか油断のならない人格だね」
「おれも、そう思うよ。……あの二人さえ、怪我をしたことを、ちっとも情けながっていないんだからな。それどころか、たいへんなもうけものでもしたようにかんがえている」
「幸福《しあわせ》なやつらだ」
「正直なところ、おれも、足ぐらい折りたかった。あんなにしてもらえるなら」
「馬鹿なことをいうな」
「そういう君だって、あのひとに別れたくながっている」
「そんなわかりきったことを、口に出していうやつがあるか」
 三枝氏が、低い声で笑った。山下氏がつづいて、つぶやくような声でなにかいったが、それは渓流《せせらぎ》の音にけされてキャラコさんの耳にはとどかなかった。
 キャラコさんは、沈んだこころで小屋へ帰ってくると、入口の柱に背をもたせて長いあいだ立っていた。じぶんの沈んだ顔いろを原田氏や黒江氏に見られてはならないと思ったからである。落胆が激しかったので、こころをとりなおすのにだいぶ時間がかかった。
 納得のゆくまで充分考えたすえ、気を取りなおした。四人の剋苦の精神のほうが、金の何層倍も尊いのだと思った。
「これだけやれば充分よ、勝ったもおなじことだわ」
 夕食がすむと、山下氏が、率直に切り出した。
「いままで嘘をいっていたが、こんどもやはり駄目だった。この一年の間、われわれがどんなに努力したか、お互いによく知っているのだから、これ以上、しちくどくいう必要はないだろう。あす、山をおりて東京へ帰るつもりだが、われわれの仕事はこれで終わったというわけではない。鉱山のほうはうまくゆかなかったが、われわれの研究のなかで、この失敗をとりかえすことにしよう」
 三枝氏は、鉱石のはいった採集袋を食卓のうえにおくと、
「この一年の記念のために、最後の鉱山《やま》の鉱石をひろってきた。われわれ四人の遺骨だ。数もちょうど四つある。ひとつずつだいて帰ろうや」
 といった。
 山下氏が、立ってきて、キャラコさんに挨拶した。
「あなたは、ほんとうに不思議なお嬢さんでした。どういう素性のかたなのか、……また、ほんとうの名前さえ知らずにお別れすることになりましたが、このほうが、たしかに印象的です。……最も心のやさしい女性の象徴として、いつまでも、われわれの心に残るでしょうから……」
 あとの三人は、何もいわなかった。
 原田氏と黒江氏は寝台の上で、三枝氏は、食卓に頬杖《ほおづえ》をついて、いつまでも、じっとしていた。



底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
   1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
   1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
   1939(昭和14)年4月号
※初出時の副題は、「虹色の旗」です。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全6ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング