手《て》コップを取りあげると、這々《ほうほう》のていで実験室まで引きさがって行った。

 黒江氏が、チョコレートをすすりながら、遠慮がちに、つぶやくような声で、いった。
「……ともかく、あのお嬢さんに、家政と料理の天分があるということだけは、認めてもいいわけだね」
 三枝氏が、同じような調子で、こたえた。
「……そのほうでは、たしかに良識《フェルニンフィテッヒ》だよ。こういう種類の快楽は、われわれの仕事の邪魔になるとしてもだな」
 原田氏が、怒ったような大きな声を出す。
「きいたふうなことをいうな。……ご同よう、下宿の女中と、研究室の小使いの庇護《ひご》のもとにいるだけで、ああいう女性の行き届いた心づかいなどを受けたことはかつて一度もないんだから、それが仕事の邪魔になるかどうか、経験として語りうる資格のあるやつは一人だっていやしないんだ。……ところで、おれの感想を率直に述べると、おれは、非常に愉快だった。……喰いもののことなんかいってるんじゃないぜ。……はじめての経験なんで、うまく感じをいいあらわすことはできないが、とにかく、呆気《あっけ》にとられるくらい愉快だった。……なんではあれ、
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