ャラコさんは、手早く食事のあと片づけをすますと、すぐ白い前掛けをつけて実験室へ現われてくる。
一週間もたたないうちに、キャラコさんは分析実験の段取りをすっかり覚えてしまった。
キャラコさんは、額にむずかしい皺《しわ》をよせながら分析台のそばに立って、せわしそうに動く四人の手を注意深くながめている。そして、適当な時に、ツイと分析皿を差し出したり、アルコール・ランプに火をつけたり、無言で差し出す手にピンセットを渡してやったりする。
キャラコさんはひとことも口をきかないばかりか、大きな呼吸《いき》さえしないようにしているので誰れもキャラコさんがそばに立っていることに気がつかない。仕事の区切りがついて、ひと息いれるとき、いままで円滑《スムース》に仕事がはかどっていたのは、キャラコさんが手助けをしていてくれたお蔭だということを知ってびっくりしてしまう。黒江氏が、いう。
「ほほう、またキャラコさんだったんですね」
「ええ、そうよ、あたしですわ。幽霊ではなくてよ」
三枝氏が、感嘆したような声をだす。
「たしかにそれ以上ですよ。……僕は原田がそばにいるのだとばかし思っていた」
山下氏が、生真面目な表情で、うなずいた。
「キャラコさんは、たしかに、研究室の学生よりもうまくやる」
廿分ほど休憩すると、四人は仕事の続きにとりかかる。キャラコさんは、また無言で働きだす。
十一時になると、四人は実験を切りあげて寝床へゆく。
キャラコさんは、みなに、おやすみ、をいってじぶんの寝床のある『食堂』までひきさがると卓の上に立てた薄暗い蝋燭の光の下へノートをひろげて、低い声で、
「……Au……金、……CuFeS2[#「2」は下付き小文字]……黄銅鉄、……Ag2[#「2」は下付き小文字]S……輝銀《きぎん》鉱……」
と、二時ごろまで、鉱石の成分式の暗記をやっている。
六
気むずかしい顔をした楽しいあけくれが、こんなふうに半月ほどつづいた。みな、見ちがえるように健康そうになり、互いの顔をながめては呆気《あっけ》にとられるのだった。
ところで、キャラコさんは、やはりこの小屋に必要な人間だった。人生にとって、『女の手』というものがどんなに大切なものか証明されるような事件が起こった。
夜なかに、こっそり起きて分析試験をしていた黒江氏が、誤って吸管《すいかん》の炎を咽喉《のど》に吸いこんで大怪我《おおけが》をしてしまった。
黒江氏は炎などを吸い込む気はなかった。
夜がふけて、しんしんと小屋の中が冷えてくると、例の咳がはげしくなってくる。自分の咳で仲間やキャラコさんの眠りをさまたげまいと思って、がまんにがまんをかさねる。突然、咽もとへ突っかけて来た咳の発作をこらえようとして、無意識に息をひいたとたん、吸管の炎を深く吸いこんでしまったのである。
たいへんな怪我だったけれど、黒江氏は、みなを驚かすまいと思って、叫び声ひとつあげなかった。
板壁を伝ってそろそろと扉《ドア》のほうへはっていったが、とうとう力がつきて、戸口のところで気を失ってバッタリと倒れてしまった。清水《しみず》で咽喉《のど》を冷やし、そっと自分で始末してしまおうと思ったのである。
最初に発見したのはキャラコさんだった。
キャラコさんは眠っていたのではなかった。いつものように食卓の上に蝋燭を立てて、せっせと鉱物学の常識を養っていた。入口の扉のほうで何か重いものが倒れたような音がしたので、そっと出て来てみるとこの始末だった。
キャラコさんは、たいへん沈着だった。
額に手をあてて見ると、たいして熱はなかったが、もし、脳溢血《のういっけつ》で倒れたのでもあったら、へたに動かしたらたいへんなことになると思って、そのままそっと床《ゆか》に寝かしたまま、しずかに、三人を呼び起こした。
「すみませんけど、ちょっと、起きてちょうだい」
三人は、すぐ眼をさました。が、キャラコさんがいつもと変わらないようすをしているので、こんなたいへんなことが起きているとは、とっさに気がつかなかった。
山下氏だけは、何かけはいを感じて、キュッと顔をひきしめながらたずねた。
「どうしました、キャラコさん」
キャラコさんが、しっかりした声で、いった。
「ちょっと、黒江さんのようすを見てちょうだい。ひどく悪いのだったら、これからすぐ医者を迎えにゆかなくてはなりませんから……」
そういっておいて、じぶんは急いで黒江氏の寝床をつくり、洗面器に清水《しみず》を汲《く》んでタオルと一緒に枕もとへそなえて置き、いつでも医者を迎いに出かけられるように甲斐甲斐しく身支度をしはじめた。
黒江氏は、間もなく意識をとり戻した。ぼんやりした眼つきで皆の顔を見廻していたが、頭がはっきりすると、吸管の炎を吸い込んでしまった
前へ
次へ
全15ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング