だす。
「おやおや、ずいぶん貧弱なところね。せめて、蕨《わらび》か蕗《ふき》の薹《とう》ぐらいあったっていいはずなのよ。木苺がこれぽっちとはあんまりだわ。……この分では、川のほうだってあまり期待ができないらしいわね」
キャラコさんは、ひとりでブツブツいいながら裏山をおりて川の岸までゆくと、すこしくい込んだ、沢のようになったところに、あさ緑の水草のようなものが密々《みつみつ》と生えている。見ると、それは水芹《みずぜり》だった。
キャラコさんは、夢中になって手をたたく。
「あら、水芹があるわ!」
手でさわって見ると、みずみずしい、いかにもおいしそうな水芹だった。
「これで、おひたしのほうは片づいた。……仏蘭西掛汁《フレンチ・ドレッシング》をかけてサラダにしてもいいし、お味噌汁の中へ入れてもいいわけね。……これだけあったら、充分二三日は喰べられるわ。……待っていらっしゃい、帰りにたくさん摘《つ》んであげるわ。……こんどは魚《さかな》のほうだけど、うまく、何かいてくれるかしら……」
岸について川上へのぼってゆくと、すこしよどみになって深い瀬《せ》へ出た。水の中へ手をいれて川底の石をひろって仔細に眺めて見ると、水苔に魚が突ついた口のあとがついている。
「うまい工合ね。このぶんなら、たしかに山女魚《やまめ》ぐらいはいそうだわ」
岸からそっと身体をひいて、骨を折って大きな蠅を一匹つかまえて羽根をむしって水の上へ落してやると、まるで待ちかねてでもいたように、水の面《おもて》がはげしく動いて、キラリと鱗《うろこ》を光らせながら、虹色の魚が飛びあがりざま、パクリとそれをのみ込んでしまった。四寸ぐらいもある美しい虹鱒《にじます》だった。
キャラコさんが、うっとりとした声を、だす。
「虹鱒だわ! なんて、すばらしいこと!……水芹《クレッソン》があって、そのうえ虹鱒まであったら、帝国ホテルのご馳走にだって負けはしないわ。……これじゃ、愚痴どころではないようね。貧弱なところだなんていったのは取り消してもいいわ」
キャラコさんは、うれしくて胸がドキドキしてきた。
「フライにして、レモンをかけて喰べてもいいし、塩焼きにしてもいいわね。利用の方法はいくらでもあるわ。それはそうと……」
それはそうと、この虹鱒をどうして捕まえようというのです。気をきかして、虹鱒が自分からフライ鍋の中へはいってくるなんてことはとても期待ができない。いずれにしろ、釣るとか捕まえるとかするほかはないのだが、綸《いと》もなければ鈎《はり》もない。網の代用になるようなものも思いつかない。
キャラコさんは、無念そうな顔をして水の面《おもて》をにらみつけていたが、なかなかいい考えがうかんで来ない。
「……困ったわね。こんなたいへんなご馳走が目の前で泳いでいるというのに、手も足も出ないというのはあまり情けないわ。なんとかならないものかしら」
虹鱒は、キャラコさんをからかうように、すぐ眼の前で水の面《おもて》へ飛び出して、ボシャンと大きな音をたてて水の中へ落ち込む。キャラコさんは、腹を立てる。
「そんなふうにたんと馬鹿にしていらっしゃい。いまに、つかまえてあげるから……」
キャラコさんは、川下のほうを眺めながら、腕を組んで、かんがえる。
「……釣鈎《つりばり》も網もないとすると、簗《やな》をつくってかいぼりするよりほかないようね」
水はせいぜい膝がしらぐらいの深さしかないが、五|間《けん》ほどの幅で、岩にせかれながら相当早い瀬《せ》をつくって流れている。ちょっと手軽にゆきそうもない。
「たいへんだ。この大きな川をかいぼりするのかしら……」
しかし、それより方法がないとなると、やっつけるよりしようがない。
キャラコさんは、だいたい思いきりのいいほうだから、いつまでもグズグズ考えていない。スカートの裾をたくしあげると、すぐさまかいぼりの実地検分にとりかかった。
丹沢の地震のとき、このへんもだいぶひどくやられたとみえ、凝灰石《ぎょうかいせき》の大きな岩がいくつも川の中へころげ落ちて、ところどころで流れをせきとめている。その岩と岩との間を簗《やな》でふさいでゆけば、どうにかかいぼりができそうな工合だった。
キャラコさんは、物置小屋に古い葦簀《よしず》があったのを思い出し、小屋まで駆け戻ってそれをひと抱えかかえて来た。
おもしろいどころではない。キャラコさんは、もう一生懸命だった。四人にこのみごとな虹鱒を喰べさせてあげたいという思いで、胸のしんが痛くなるほどだった。
膝までザブザブ水の中へはいって、岩と岩の間へ葦簀を張って、その裾のほうを石でしっかりととめて行った。
中瀬《なかせ》のところは流れが早くてたびたび失敗したが、いくども根気よくやり直してどうにかやりこなし、魚
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング