らないことばかりいう。キャラコさんは返事のしようもなくておし黙っていると、茜さんは、唇のはしに皺《しわ》をよせてジロジロとキャラコさんを見おろしながら、だしぬけに、
「キャラコなんて、ずいぶんトンチキな名ね。ひとを喰ってるわ」
 と、切って放すように、いった。すこし無礼だと思ったが、キャラコさんは、笑いながら素直にうなずいた。
「そうね」
「それ、あなたの本当の名?」
 キャラコさんは、うちあけた話をする。
「いいえ、綽名《あだな》なのよ……あたし、いつもキャラコの下着を着ているでしょう。だもんだから……」
「本当の名は、なんというの? 宿帳には、沼間槇子《ぬままきこ》となっていますわね。あれがそうなの?」
「いいえ、あれは従姉《いとこ》の名よ」
「じゃ、あんたの名は?」
 キャラコさんは、まっすぐに茜さんの顔を見つめながら、こたえる。
「それは、いえないことになっていますの」
 ふうん、と鼻を鳴らしてから、
「じゃ、あんたのお父さまは、何をなさる方?」
 キャラコさんが、首をふる。
「それも、いえませんの」
「おや、不便ね。……どういうわけで?」
「それも、申し上げられませんわ」
「ええ、いってくれなくても結構よ。……要するに、あんたは、偽名《ぎめい》して、あんなところに隠れているのね」
 茜さんは露骨な嘲笑をうかべながら、
「なにか、よくよくうしろ暗《ぐら》いことがあるのね」
 キャラコさんは、返事をしなかった。うしろ暗いことなんかないといってみたところで、しょせん水かけ論だからである。
 茜さんは、勝ち誇ったような声で、
「そんなことぐらいわからないと思う? あたしはよほど前からちゃんと知っていたのよ。あんた、槇子《まきこ》さんと呼ばれると、ときどき、返事をしはぐるでしょう。……ははあ偽名をつかっているんだな、ってそう思っていたの。……いったいどうしたっていうの?……あんた、ここで、そっとママにでもなるというわけ? それとも、なにか、もっと深いわけがあるの?……いずれにしても、浮世《うきよ》を忍ぶには屈強の場所ね。……でも、そんなことは、あたしの知ったことじゃない。おうかがいしたいのは、ほかのことなの」
 キャラコさんが、落ち着いた声でいう。
「おっしゃってみて、ちょうだい」
 傲慢《ごうまん》に、上から見おろしながら、
「あんた、兄に対して、どんな感情を持っていらっしゃるの」
「お気の毒だと思っていますわ」
「おや、たったそれだけ?……ほんとうのことをいってくださいね」
「あたし、嘘なんかいったことはありませんわ」
 茜さんは、ふん、と鼻で笑って、
「自慢らしくいうわね。だいたい、嘘のある齢《とし》でもないじゃないか。あんたなんか、まだ子供だわ。……でも、あんたは別なのかも知れない。……ねえ、かくさずにいってちょうだい。あんた、兄に対して何か特別な感情を持っているんじゃない?」
 キャラコさんは、ゆっくりとかんがえてみる。
 どう考えても、特別なんてことはないようだ。佐伯氏にたいする愛の感情は、秋作氏や立上《たてがみ》氏にたいするそれとちっとも変わりがないように思う。ただ佐伯氏のほうはたいへん不幸なので、どんなことでもして慰めてあげたいという、すこし別な気持が加わるだけのことである。
 キャラコさんは、微笑しながらこたえた。
「特別な感情なんかもっていないようよ」
「じゃ、なぜ、あんなにしつっこく兄をつけ廻すの」
「あなた、考えちがいをしていらっしゃるんだわ。あたし、本を読んであげたり、お話をしてあげたりしているだけなの」
「それ、本当でしょうね」
「本当よ」
「誓うことができて?」
「ええ、誓ってもいいわ」
「そんなら、それでいいから、じゃ、もうこれっきり兄に逢わないようにしていただきますわ」
「あら、なぜでしょう」
 茜さんは、マジマジとキャラコさんの顔をみつめながら、吐きだすように、
「汚《けが》らわしいからよ、あんたのようなひと」
 そばへ寄ってもらいたくないというふうに、殊更《ことさら》らしいしぐさでとなりの幹に移ると、それに背をもたせながら、
「ご存知ないかもしれませんけれど、あたしの一族は純血《ピュウル・サン》なのよ。……だから、あんたのような、うしろぐらいところのある下等なひとはそばへ寄せつけないことにしてあるの。膚《はだ》がけがれますから。……どう、おわかりになって? これでもわからなければ、あんた、すこし馬鹿よ」
 キャラコさんは、思わず立ちあがった。が、すぐ自制した。
(……すこし、頭の工合が悪いのかも知れない。どうも常態《ノルマル》でないようだわ。こんな非常識なひとのいうことにムキになったりしたら、それこそ、こっちがやりきれないことになる。……それにしても、純血《ピュウル・サン》って、なんのことかしら? 馬《うま》でもあるまいし、ずいぶん、でたらめなことをいうわね)
 キャラコさんは、馬鹿馬鹿しくなって、口をきく気にもなれなくなった。
 茜さんは、いら立たしそうに眉をひそめながら、
「なんでもいいから、兄から手をひいてちょうだい。いくらつけ廻したって、もうモノにならなくてよ」
 茜さんは美しいので、キャラコさんはたいへん好きだったが、あまり下等な口のききかたをするのでガッカリしてしまった。
「それで、佐伯氏のほうは、どうおっしゃっていらっしゃるの?」
 茜さんは、イライラと足踏みをして、
「兄のことなんか放って置いてちょうだい。もちろん、あんたのことなんか、もう問題にしていなくてよ。……兄はお人好《ひとよ》しなもんで、一向気がつかないの。……だから、あたしからよくいってやりましたわ。……あれは、たいへんなお嬢さんなのよ、って。……兄も不愉快がって、あいつ、どこかへ行ってしまわないかな、っていっていましたわ。……つまりね、あたし、兄の代理でやってきたわけなの」
 キャラコさんは、ちょっと眼を伏せた。
(なるほど! きのうに限って疏水《そすい》へやって来なかったのは、そういうわけだったんだわ)
 もちろん、よく思われようとしてやったことではないが、それにしても、こんな情けない原因で佐伯氏に逢えなくなるのは、すこし悲しかった。
 しかし、自分でなければ、佐伯氏を慰めることができないというのではないし、それに、いつまでもそばにいてあげられるというわけでもないのだから、どっちみち同じことのようである。立上《たてがみ》氏の力で、佐伯氏の視力がすこしでも回復すれば、それで自分の好意はとどくわけだ。
 茜さんは、鋭い舌打ちをひとつして、
「ねえ、お返事はどうなの」
 キャラコさんが、はっきりと、こたえた。
「もう、お目にかかりませんわ」
「逢わないっていうだけでは困るのよ。すぐあの宿から出て行っていただけるかしら?」
 キャラコさんは、素直にうなずいた。
「ええ、そうしますわ。今日じゅうならよろしいの?」
「できるだけ早くね」
 茜さんは、背伸びをするようにグッと胸をそらすと、
「……それから、あしたおいでになるというドクトルの件ね、あれ、お断わりしてよ」
 キャラコさんは、眼を見はって、
「あら、どうしてでしょう。そのかたなら、かならずお兄さまのお眼を癒《なお》して差しあげることができるんです。どうか、そんなことをおっしゃらないで……」
 茜さんは、切りつけるような調子で、
「結構よ。放って置いてちょうだい。……あたし、兄を盲目《めくら》のままにして置きたいんです」
 キャラコさんは、自分の頬《ほほ》にクワッと血がのぼってくるのがわかった。
「茜さん、あなた……」
 茜さんは、空うそぶいて、せせら笑うように、いった。
「盲目の兄! なんて、ずいぶん、浪漫的《ロマンチック》じゃないこと?」
 とりつくしまもなかった。

     六
 キャラコさんは、これを機会に、秋作氏のすすめにしたがって、すこしの間ほうぼうを歩いて見ることにきめた。
 箱根町の小さな旅館へ引き移って、旅行の支度をしようと思って町へ買物に出ると、町かどの電柱に、脇坂《わきざか》部隊の戦傷勇士佐伯軍曹が、本町有志の熱心な懇請《こんせい》によって、今日午後一時から処女会の講堂で実戦談を行なわれることになったというビラがはりだしてあった。
 蘆《あし》の間で、ほのぼのと木笛《フリュート》を吹いていたわびしそうな姿が眼にうかぶ。あの佐伯氏がどんな切実な働きをしたのか聴いてみたくなった。
 会場へ行くと、入口に大きな国旗をつるし、
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南京《ナンキン》光華門突入決死隊の一人、佐伯軍曹軍事講演会々場
[#ここで字下げ終わり]
 という大きな紙の立看板がたてかけられてあった。
 講堂にはもう大勢の聴衆がつめかけ、演壇の両側には町の役員らしい人たちがズラリとい並んでいる、前列のはしに、佐伯氏が、すこしうつ向き加減になって、茜さんと並んで掛けていた。
 キャラコさんは、うしろから突かれてとうとう演壇から二列目の椅子のところまで押しだされ前の人の背中に隠れるようにして坐っていた。
 定刻になって、司会者のながながしい紹介が終ると、とどろくような拍手が起こり、佐伯氏が茜さんに手をひかれて、演壇あがってきた。
 昂奮しているせいか、いつもより顔の色が悪く、ソワソワして、まるっきり落ち着きがなかった。水差しの水を一杯飲んでふるえるような手つきで唇をぬぐうと、聞きとりにくいほどの低い声ではなしはじめた。
「……南京城攻略戦は、……南京城壁、東南方から開始されまして、……十日の午後五時、脇坂部隊は、工兵部隊の決死的城門破壊と間髪を入れず、光華門の一角を占領……」
 声がとぎれて、何をいっているのか最後のところははっきりと聞えなかった。顔が土気《つちけ》色になり、ハンカチを出してはしきりに額をぬぐう。倒れるのではないかと思って、キャラコさんは、気が気でなく伸びあがって佐伯氏の顔ばかり見つめていた。
 佐伯氏は演壇に両手をついて首を垂れていたが、しばらくののち、顔をあげると、つぶやくような声でつづけた。
「……午後五時廿分、山際《やまぎわ》、葛野《くずの》両勇士|麾下《きか》の決死隊士によって光華門城頭高く日章旗が掲げられますと、伊藤中佐につづいて、……われわれ……」
 壇に手をついて、肩で大息をつき、
「われわれ、……一同……」
 もう、倒れる。……キャラコさんは、夢中になって、われともなく、
「ああ」
 と、大きな声をあげた。
 佐伯氏はギョッとしたように、急に顔をあげてキャラコさんのほうを眺めていたが、聴衆のほうへ向き直ると、とつぜん、
「申し訳ありません。……実に、どうも、不敵千万な……」
 と、いうと、声をあげて演壇の上へ泣き伏してしまった。
 講堂の一同は、何事かと眼をそばだてているうちに、佐伯氏は、錯乱したように演壇を駆けおりると、人波《ひとなみ》をおしわけながら入口から走り出して行ってしまった。

 キャラコさんは、旅の身じたくをして箱根町から発動機艇《モーター・ボート》に乗り、湖尻《こじり》の桟橋で降りた。
 渚の向うに、毎日、佐伯氏と落ち合っていた疏水の蘆が見える。
 いろいろな思いが、しずかに心のうえを流れる。
 佐伯氏の過去に、いったいどのような事があったのか察することができないが、なにか、たいへんな不幸か、たいへんな悩みがあったのだという事だけはわかる。あの狂い出したようなようすを見るにつけても、それが、どんなにかひどいものだったろうと、思いやられるのである。
 ……疏水のほうから、木笛《フリュート》の音がゆるゆると流れてくる。
 空耳《そらみみ》ではなかった。佐伯氏がいつも吹く、あのやさしげな曲である。
 キャラコさんは、なつかしさに耐えられなくなって、小走《こばし》りしながら、蘆の間へ入ってゆくと、佐伯氏は木笛《フリュート》を吹いたまま、いつものように、すこし身をすさらせて、キャラコさんの席をつくった。
 キャラコさんは、そのそばへ肱《ひじ》をくッつけて坐った。
 佐伯氏は、もうあの黒い眼鏡をかけていなかった
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