。どうしたのかと思われるほど、いきいきとした顔色をしていた。
楽しそうに、ゆっくりと木笛《フリュート》を吹き終えると、男にしてはすこしやさしすぎる、深く澄んだ眼差しでキャラコさんの顔を眺めながら、いった。
「キャラコさん、私はあなたに、ひどい嘘ばかりついていました。どうか、ゆるしてください。……私の弱さのせいもありますが、それはともかく、そうしなければならない深い事情があったのですから……」
キャラコさんは、黙ってうなずいた。
佐伯氏は、言葉を切ってから、ちょっと例のないほど率直な口調で、
「……キャラコさん、驚かないでくださいね。私は、昨年の暮れから世間を騒がせていた三万円の拐帯《かいたい》犯人なんです」
キャラコさんは、だまって佐伯氏の顔を眺めていた。自分でもふしぎに思われるほど静かな気持だった。
佐伯氏は、両膝を抱いて、ゆるゆると身体をゆすりながら、
「こんな話は、お聞きになりたくもないでしょうが、でも、我慢して、もうすこしきいてください。あなたのご親切を、こんなふうに、長い間裏切っていたおわびのためにも、せめて、そうでもさせていただきたいと思うのです」
キャラコさんは、微笑しながらこたえた。
「あたしにお詫《わ》びになることなんかいりませんけど、それで気がすむのでしたら、どうぞ、なさりたいようになすって、ちょうだい」
佐伯氏は、湖尻《こじり》の汽船発着所のほうへチラと眼を走らせてから、
「私は、今あなたが乗っていらしたモーター・ボートで箱根町へ行って自首するつもりなのですから、どっちみち、そんなに長い間お話はできないのです。……もう、時間もありませんから簡単にお話しますが、私も茜も、子供のときから、屈辱や不安や空腹などの鋭い切っ尖《さき》に絶間なくおびやかされて来た身の上だったのです。……ようやくの思いで小さな実業学校を出て、長い間就職口を探していますと、ある銀行の課長が私を使ってやってもいいというのです。ただし交換条件がある。……就職させてやるかわりに、茜と秘密の結婚をさせろというのです」
キャラコさんは、思わず眼を閉じた。キャラコさんのような人生の経験の浅いものにも、それからどんな悲劇が起きたのか、これだけ聞くともうなにもかもわかるような気がした。
佐伯氏は、眼に見えぬほど顔を赤らめて、
「……どれほど卑屈になじんでいたとはいえ、さすがに、そんなことまでする気にはなれませんでしたが、茜が泣いて説得するので、死んだ気になって承知しました。……そうさえすれば、二人とも、長い貧乏の中から浮びあがれるのですから。……ところが、それもいつまでもつづきませんでした。茜はたった二年で捨てられてしまい、そのあげく、こんどは私を解雇するといい出しました。……私は、貧乏だというだけの理由で、長い間、底知れぬ悪意や不親切や迫害に駆りたてられて、すっかりひねくれてしまい、人生とは、いつか復讐してやる値打のあるものだといつもそう考えていましたので、課長のひどい仕打ちにしかえしをするために、その日、支店へ送るはずの三万円の現金を持ち出してやりました。せめて、それくらいのことをしてやらなければ息がつまりそうだったのです。……それから不埓《ふらち》にも傷痍《しょうい》軍人になりすまして、茜と二人でほうぼう逃げ廻りました。やって見ると、思いがけなく困難な仕事でしたが、私たちは元気をなくしませんでした。自分のしたことが悪い事だとはどうしても考えられなかったからです。……愚かな話ですが、ざまア見ろとさえ思っていました。そんなにも、心がねじけていたのです」
そういって、おだやかな微笑をうかべながらキャラコさんの眼を見かえし、
「……ところで、ここであなたにお目にかかるようになってから、とつぜん、私の前に新しい世界がひらけることになりました。……こんな親切な世界もあるのかと、呆気《あっけ》にとられてしまったのです。……生まれたときから、ひとの不親切や、意地悪や、悪意ばかり眺めてきた眼には、とても真実なこととは考えられないのでした。……キャラコさん、あなたは、私の眼がかならず癒《なお》ると茜におっしゃったそうですね。……実際、その通りでした。……なにも、ドクトルなどを呼んでくださる必要はなかったのです。……あなたの手で、ちゃんと私の視力をとり戻してくださいましたから。……つまり、心の視力をね。……それから、たびたびここであなたと逢って、人間の親切というものを深く心にしめるにつけ、自分のしていることがいかにも果敢《はか》なく思われてきて、新しい出発の動機をつくるために自首するといい出しました。……茜は、私の決心がにぶったのだと思って、いろいろな方法でそれを阻止しようとしました。あなたに逢えないようにしたのもそのためです。……しかし、どうか、茜をせめないでください。間違っていようとも、あれは、あれなりの真情で私を愛しているのですから。……嘘だったということは、今日はじめてわかりましたが、茜から、あなたが東京へ行かれたと聞くと、私は闇夜《やみよ》の中でとつぜん光明を失ったような気持になって、また決心がにぶり、茜にすすめられて、今日のような不埓《ふらち》なまねをいたしましたが、でも、もう大丈夫です。私の決心はぐらつきません。贖罪《しょくざい》をして新しく生まれ変わったら、その身装《みな》りをお目にかけに行きます。……キャラコさん、私はあなたにひどい嘘をつきましたが、どうぞ、ゆるしてください。あなたにだけは、拐帯《かいたい》犯人だということを知られたくなかった。ここで語り合ったあの姿で、あなたの記憶にとどめて置きたかったからです」
プツンと言葉を切ると、蘆の間でゆるゆると身体を起こしながら、
「……さあ、ずいぶんしゃべった。……では、そろそろ出かけることにしましょう。……いつか、私がそういいましたね。なんでもなくしてくださったあなたの親切が、私にどんなたいへんな影響をあたえたか、いつか必ずわかるときが来るって。……つまり、これが、その結果《レジュルタ》です」
キャラコさんは、発動機艇《モーター・ボート》の桟橋まで佐伯氏を送って行った。
発動機艇《モーター・ボート》は渚を離れた。
佐伯氏は船尾に坐って、ゆるゆると木笛《フリュート》を吹いている。
岸では、キャラコさんが長い蘆を振ってわかれの挨拶をする。
発動機艇《モーター・ボート》の影が見えなくなっても、木笛《フリュート》の音はまだきこえていた。
次の日のひるごろ、キャラコさんと茜さんは、長尾《ながお》峠の頂上に立っていた。眼のしたに、蘆《あし》の湖《こ》が、古鏡のように、にぶく光っている。
キャラコさんは、ここから御殿場《ごてんば》のほうへくだり、茜さんは、仙石原《せんごくばら》のほうへおりて、それから東京へ職業《しごと》をさがしに行くのである。
いよいよ別れる時がくると、茜さんが、いった。
「兄は、ほんとうにあなたを愛していたのではないでしょうか。あなたが立上《たてがみ》氏を呼んだと聞くとその夜、兄は夜半《よなか》にそっと起きあがって、稀塩酸《きえんさん》でじぶんの眼をつぶそうとしているのです。必死なようすでしたわ。……あなたにだけは嘘つきだと思われたくなかったのでしょう。……これだけ申しあげたら、この間、あたしがなぜあんなひどいことをいったか、わかってくださるでしょう。……ほんとうに、ごめんなさいね。……でも、あたしにすれば、あなたより、やはり兄の眼のほうが大切だったのですから……」
二人は、右と左にわかれた。互いの姿が見えなくなるまで、手をふりながら。
底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
1939(昭和14)年3月号
※初出時の副題は、「葦と木笛」です。
※底本では副題に、「蘆と木笛《フリュート》」とルビがついています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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