…むしろ、みっともないといったほうがいいくらいなの」
佐伯氏が、釣り込まれて、低い声で笑った。
「すこし、説明してみてください。……その前に、あなたをどうお呼びすればいいのでしょうね、お嬢さん」
「キャラコ、と呼んでちょうだい」
「キャラコ……。珍らしいお名前ですね。……では、こんどは顔のほうを……。あなたは、どんな眼をしていらっしゃるんですか」
「眼は割に大きいほうよ。……でも、魅力があるという工合にはゆきませんわ。ただ、大きいというだけ。……白熊《しろくま》の眼のようだというひともありますけど、それだって、すこしほめすぎているくらいよ。……でも、視力だけはたしかなの。なんでも、よく見えますわ。……あら、ごめんなさい」
「いいえ、かまいませんとも。……それで、鼻はどんなふうですか」
「鼻はそんなにひどくはありませんわ。段なんかつかないで、割とスラッとしていますの。ちょっと希臘《ギリシャ》型といったふうなの。でも、そんなに高いほうではありませんわ。あまり美しく想像なさると損をなすってよ」
佐伯氏は、想像を楽しむように、こころもち首をかしげながら、
「すこしずつあなたの顔が見えるようになりましたよ、……もうすこしいって見てください。口はどんなふう?」
「困ったわね。……口は、とても駄作《ださく》なのよ。すこし大きすぎるってみながそういいますわ、それは、たしかなの。口を開いて笑うと、奥歯がいつも風邪をひきますの、たいへんな口でしょう。口の話は、これくらいにしておいてちょうだい。……お次はなんですか?」
「歯はどうです」
「歯並びはいいほうよ」
「髪は?」
「棒みたい」
「棒って、なんのことです」
「つまり、パーマネントをかけないもんですから、髪が棒みたいにブラブラさがっていますの。でも、別に気にもしていませんわ。……どう? あたしの顔、だいたいおわかりになって?」
佐伯氏が、楽しそうにうなずいた。
「もう、はっきり眼に見えますよ。あなたがどんなやさしい顔をしていらっしゃるか!」
夕風が吹き出して、湖の面《おもて》が赤紫色《モーヴ》に染った。
こんなことがあってから、疏水《そすい》へ行くと、佐伯氏がいつもそこでキャラコさんを待っているようになった。二人は湖の岸を遠くまで歩き廻り、くたびれると肱《ひじ》をつき合わして草の上に坐った。キャラコさんは歌をうたったり、本を読んでやったりした。佐伯氏は戦場でたいへん勇敢な働きをしたひとだということだったが、自分では、いっさい戦争の話にふれなかった。キャラコさんには、それが奥ゆかしく思われた。あまり実感がはげしくて、かるがるしく口に出す気になれないのだろうと思って、戦争のことはなるたけたずねないようにした。
四
キャラコさんは、たったひとつ佐伯氏にたずねたいことがある。佐伯氏の眼が本当に絶望なのかどうかということである。今までいく十|度《ど》、口さきまで出かかったか知れないが、そんなことにふれてはいけないのだと思って、しんぼうしていたのだった。しかし、今日はどうしても切り出してみようと決心した。
秋作氏の親友で、キャラコさんを本当の妹のようにかあいがってくれる立上《たてがみ》氏という若い博士が、ついこのころ、ミュンヘンから帰って来た。
秋作氏は、立上のやつ、独逸《ドイツ》から近代眼科学の精髄《せいずい》をかっぱらって来やがったそうだ。と、恐悦《きょうえつ》しながらキャラコさんに話してきかせた。もし、佐伯氏にその気があるなら、いちどぜひ立上氏に診《み》させたいと思うのである。
キャラコさんが、蘆《あし》をわけて疏水《そすい》のほうへおりてゆくと、いつものところに佐伯氏が待っていて、きょうは、たいへんおそかったと、いった。キャラコさんといっしょにいることだけが、このごろの楽しみになっているふうだった。
見ると、佐伯氏の膝《ひざ》の上に英語の本が一冊のっている。キャラコさんが、おどろいて、たずねた。
「あなた、本がお読みになれるの」
佐伯氏は、悲しそうな微笑をしながら、
「私は、まず骨を折って点字で読みます。それから、その活字の本をこうして撫《な》で廻しながら、この中に、あんなすぐれた事が書いてあるのかと感慨にふけるのです。……こうして頁《ページ》の上をさすっていると、いろいろな文章がつぎつぎ記憶の中によみがえって来て、ちょうど眼で読んでいるような気持になれるのです。……未練《みれん》だと思うかも知れないけれど」
このごろは、心ないことばかり口走って佐伯氏を悲しませる。これも、自分の感情が足りないせいだと思って、キャラコさんは、そっと唇をかんだ。それにしても、眼のことに触れられるのを、こんなにもいやがっているひとに、あなたの眼はもうだめなのか、などとたずねるのは、いかにも心ない仕業《しわざ》だと思ったが、死んだ気になって、切り出してみた。
「佐伯さん、あたくし、たったひとつ、おたずねしたいことがありますの」
佐伯氏は、ビクッとしたように、キャラコさんのほうへ顔をふり向けて、
「あらたまって、どうしたんです。……ききたいって、どんなこと?」
「あなたのお気にさわることなんですから、はじめに、おわびしておきますわ。……あたしがおたずねしたいのは、あなたの眼はどうしても絶望なのかどうかということなの。……まだ、いくぶんでも希望があるのでしょうか」
キャラコさんが、そうたずねると、佐伯氏は、急にキュッと頬《ほほ》の肉を痙攣《ひきつ》らせ、なんともいえない暗い顔をしておし黙ってしまった。
キャラコさんは、どうしていいかわからなくなってしまった。うなだれて、唇だけを動かして、ごめんなさい、とつぶやいた。
佐伯氏は、ふいに、渋い微笑をうかべて、
「いま、ごめんなさい、といいましたね。よく聞えましたよ。……あやまることなんかいりません、なんでもないことです。……私が眼のことに触れたがらないのは、じつは、どうしてもあきらめきれないことがあるからなんです。…私のは、単性視神経萎縮《アトロフィア・ネルヴィ・オプチジ》という厄介《やっかい》な眼病で、手榴弾《しゅりゅうだん》の破片で頭蓋底を骨折したために、起こったもので、日本では治癒《ちゆ》できませんが、ミュンヘン大学のヘルムショルツ博士のところへ行けば必ず癒《なお》してもらえるあてがあるのです。……しかし、私にはそんな金もないし……」
ここまでいいかけると、とつぜんいらいらした口調で、
「もう、よしましょう。この話は」
と、クルリとキャラコさんに背中を向けてしまった。
キャラコさんは、宿へ帰ると、秋作氏の気付《きづけ》にして、ヘルムショルツ先生の高弟に宛てて長い長い手紙を書いた。
……そういうわけですから、この手紙を見次第、鞄《かばん》を持って飛んで来て、ちょうだい。これは、あたしの、めいれいよ。と結んだ。日記には、こんなふうに書きつけた。
[#ここから1字下げ]
キャラコの信念
佐伯氏の眼は、必ず見えるようになる!
[#ここで字下げ終わり]
一日おいて次の日、立上氏から、ミヨウゴニチアサユクという電報が来た。
キャラコさんは、その電報を持っていつものところへ駆けて行った。
木笛《フリュート》は蘆の中に置いてあるが、佐伯氏の姿は見えない。四時ごろまで待っていたがやって来ない。もしや水ぎわにでもいるのかとそのほうを見廻したが、渚《なぎさ》には人の影らしいものもなかった。
キャラコさんは手帳の紙に、
佐伯さま。明後日《あさって》のあさ、ここへ、ヘルムショルツ先生の高弟が来ます。どうぞ、あなたの眼をふたつ貸してちょうだい。
と、走り書きをし、それを電報用紙の中へ細長くたたみ込み、その表に、(茜《あかね》さま、これを読んでさしあげてくださいませ)と、書いて、それを木笛《フリュート》に結びつけた。
それから、三十分ほどすると、疏水《そすい》の向う側から佐伯氏がやって来た。
木笛《フリュート》のあるあたりに顔を向けて、ぼんやりと立っていたが、ツと手を伸ばして手紙をほどきとるとむこうを向いて、立ったままでそれを読み出した。
しばらくののち、手紙を持った手がだらりと下へ垂れる。それから、左手をいそいで眼のほうへ持って行った。
佐伯氏は、こちらへ背中を向けたままいつまでも立っている。佐伯氏の手の中で、キャラコさんの手紙がヒラヒラと風にひるがえっていた。
五
次の朝、廊下の窓のそばの籐椅子《とういす》に掛けて本を読んでいると、廊下の向うのはしから茜《あかね》さんがひどくまっすぐな姿勢でこちらへちかづいて来た。
ウールのレーンコートを着て、腕に外套をひっかけている。瘠《や》せているので、ほんとうの身丈《みのたけ》よりずっと長身に見える。面《おも》ざしは冷たすぎるほど端正《たんせい》で、象牙のような冴《さ》えかえった色をしていた。
廿二三だと思われるのに、どこか、ひどく老《ふ》けたところがあって、娘がいきなり大人になったような妙な感じをあたえる。
すらりと、キャラコさんのそばに立って、
「いいお天気ね。発動機艇《モーター・ボート》で箱根町のほうへ出かけてみません? すこし、お話したいこともあるのよ」
否応いわせない、おしつけるような調子があった。
キャラコさんは、きのうの返事がきけるのだと思って、急いで自分の部屋へ行って帽子と外套を持ってきた。
二人は桟橋《さんばし》まで歩いて行ってそこで、発動機艇《モーター・ボート》に乗った。
とりわけ、きょうは陽ざしが熱く、湖の面《おもて》はガラスのようにきらめいて、深い水底《みずそこ》でときどきキラリと魚の鰭《ひれ》が光った。
モーターの響きがこころよく身体につたわる。茜さんは、眼を細めて、うつりかわる対岸の景色をながめたまま、いつまでもおし黙っている。キャラコさんは、すこし気味が悪くなって、
「お話って、どんなお話」
と、おそるおそる切り出してみた。よくよく辛抱したあげくのことである。茜さんは急にこちらへ顔をふり向け、運転手のほうを眼で指しながら、
「ここでは、なにも申しませんわ。あなただって、それでは、お都合が悪いでしょうからね」
と、謎《なぞ》のようなことをいうと、また、クルリとむこうを向いてしまった。
どういう意味なのか一向わからない。何かひどく腹を立てていることだけはわかる。しかし、どう考えて見ても、茜さんを怒らせるようなことをした覚えはない。
(いったい、何をいいだす気なんだろう)
キャラコさんは、ひとりで首をひねっていたが、そのうちにめんどうくさくなって、そんなことにクヨクヨしないことにした。
浮《うき》ヶ島の近くへ来ると、発動機艇《モーター・ボート》は速力を落として、岬の鼻のところでとまった。
茜さんは、ボートから降りると、岸づたいに岬の鼻を廻り、先に立って御用邸《ごようてい》の下の深い林の中へズンズンはいって行く。
キャラコさんは、なんだか嫌気《いやき》がさしてきて、ついて行きたくなくなった。
「お話って、こんなところでなければいけないことですの」
茜さんは、キッと振り返って、冷酷な眼つきでキャラコさんを見すえると、
「それは、あなたのほうが、よくご存知でしょう。……逃げようたってだめよ。だまってついて来てちょうだい」
と、甲高い声で叫んだ。
キャラコさんは、閉口して、またトボトボと歩き出した。
鬱蒼《うっそう》と繁り合った葉の間から、陽の光が金色の縞《しま》になってさし込んでいる。しんとして、小鳥の声のほか何の物音もきこえない。
茜さんは、急に足をとめて、顎《あご》で指して、大きな切り株へキャラコさんを掛けさせると、自分は樹《き》の幹に背をもたせて立ったまま、悪く落ち着いた声で、
「……どう? ここなら、どんな話でもできるわね。……あたしが、こんなに気をつかってあげるのは、女のよしみだけですることなのよ。親切だなんて思いちがいしないようにして、ちょうだい」
それにしても、わけのわか
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