ンが動かなくなった。
キャラコさんは、にがにがしい顔をして長い間ペン軸を噛《か》んでいたが、とうとう、思い切ったように、そのあとに、こんな風に書き足した。
[#ここから3字下げ]
つまり、私が、おっちょこちょいだから……。なってないわね。……よく覚えておきなさい。他人《ひと》に同情するなどというのは、けっして容易《たやす》いわざでないということを。いい加減な同情などは、これからつつしまなくては。
[#ここで字下げ終わり]
キャラコさんは、寝床へはいってから、いつまでも大きな眼をあいて天井をながめていた。
気持が沈んで、ひどくメランコリックになっている。なんだかもの足りない。あの不幸なひとにやさしくしてあげることができないというのは、なんというさびしいことだろう。
アッシュのステッキをついて、そろそろと足さぐりして歩いている佐伯氏のわびしそうな姿が眼にうかぶ。
佐伯氏は、石ころだらけのゆるい坂道を虫のはうように歩いて行く。杖のさきで長い間道の上をたたく。いよいよ大丈夫だと見極めがつくと、おずおずと右足を伸ばす。また杖で道をさぐる。それから、ようやく左足が出てゆく。
なんて、はかばかしくないんだろうと思って、キャラコさんのほうで、ジリジリしてくる。がっかりしたような声をだす。
「とても、見てはいられないわ」
佐伯氏は、まだのそのそやっている。あまりひどい骨折りなので、すぐ疲れてしまうらしい。四、五歩あるいては立ちどまって汗をふく。それからまた元気を出してやりだす。
ところで、休んでいるうちに方角がわからなくなったとみえて、道を斜《はす》に、大きな松の木の根が出ている窪《くぼ》みのほうへどんどん歩いてゆく。危ない危ないと思っているうちに、案の定、穴ぼこの中へ右足を踏みこんでえらい勢いでひっくりかえる……。
キャラコさんの胸が劇《はげ》しくおどる。思わず大きな声をだす。
「あら、危ない! ……ほうら、とうとう落っこっちゃった」
自分の声ではッと気がついて赤い顔をする。てれくさくなって、枕の上で頭をまわす。
キャラコさんの耳に、毒々しい佐伯氏の声がきこえる。
(うるさいから、放っておいてくれたまえ! めくら[#「めくら」に傍点]扱いにされるのはごめんだよ)
たしかに、ひどすぎるいい方だ。辛辣《しんらつ》すぎる。ひねくれている。あまり礼儀しらずだ。
キャラコさんは、こんな事をかんがえながら、一方では、穴ぼこのなかからやさしく佐伯氏を助け起こしている。
どんなに腹を立てようと思っても、どうしても思うようにならない。
キャラコさんは、幻想を払いのけるために、えへん、と大きな咳払いをする。
「こんなことじゃしようがないわ」
自分があまり感傷的《センチメンタル》なのが不愉快になってきた。
「むやみにひとに同情しやすくて困るわね。だから、みなあたしのことを馬鹿だと思っている。もう、十九にもなったんだから、そろそろこんな性質にうち勝たなくては!」
キャラコさんは、額に皺《しわ》をよせむずかしい顔をしながら、決心する。
「ともかく、もっと強い意志を持つことだわ! あんな意地の悪いひとなど放っておけばいい」
これで、ようやく安心する。枕を置き直して眼をつぶる。
間もなく眠くなってきた。
キャラコさんは、うつらうつらした半睡《はんすい》の中で、あす早く起きて、佐伯氏が散歩する道の石ころをみな取りのけておこうとかんがえていた……。
三
次の日の夕方、いつものように疏水《そすい》のほうへ散歩に行くと、佐伯氏がそこの枯蘆《かれあし》の間にあおのけに寝ころんでいた。
またうるさがらせてはいけないと思って、猫のように足音を忍ばせながら、そっといま来たほうへ帰りかけると、とつぜん、佐伯氏が声をかけた。
「ああ、きのうのお嬢さんですね」
キャラコさんは、ギョッとして立ちどまった。
「ええそうよ……。あたし、あちらへまいりますわ。お邪魔してはいけませんから……」
佐伯氏は、あわてたように身体を起こすと、
「邪魔だなんて、……よかったら、……すこし、話して行ってください」
そういって、狭い蘆《あし》の間で、すこし身体をすさらした。
とげとげしたところはなく、今日はたいへん静かな口調だった。
「でも、あなたひとりでいらっしゃるほうがお好きなんでしょう。気がつかないでこんなほうへやって来てしまって……。あたし、やはり、あちらへまいりますわ」
佐伯氏は、唇のはしに神経質な微笑をうかべながら、
「そんなに気をつかってくださらなくとも結構ですよ。……でも、あたしのようなものとお話になるのがおいやなのなら……」
キャラコさんが、あわてだす。
「あら、そんなことありませんわ。いやだなんて……。あたしは、ただ、お邪魔してはいけないと思っただけなの。……お差しつかえなかったらここへ坐ってよ」
へどもどしながらそばへ並んで坐ると、佐伯氏は頬骨《ほおぼね》の上のところをすこしあからめながら、
「きのうはずいぶん失礼なことを申しました。どうか、ゆるしてください。疲れてイライラしていたせいなんです。……おわかりになりますまいが、こんな不自由な身体で長い旅行をすると、思うようにゆかないことが多くて、ついいら立ってしまうのです」
「どんなにかご不自由なことでしょうね、お察ししますわ」
「有難う。……感のわるいところへ持ってきて、すこしわがままなもんだから、なんでもないことにすぐ腹を立ててしまうのです。結局、自分の損なんだけど……」
「まだお馴れならないせいもあるでしょうし……」
「そうですよ、なにしろ、俄かめくら[#「めくら」に傍点]でね」
「そんな意味でいったのではありませんわ」
「気になさらないでください。どうしてでしょうかね、つい、こんな口調になってしまうのです。……眼が見えなくなったという事実にたいしては、すこしも遺憾はないのですが、日常の直接なことにあまり不便が多すぎるので、じぶんで始末がつかなくなってしまうのです」
キャラコさんは、だまって佐伯氏の顔をながめていた。それにしても、あの茜《あかね》さんというひとがなぜもっと佐伯氏をいたわってあげないのだろうと考えていた。散歩についてくることもなければ、廊下などで手をひいてやるところも見たことがない。いつも、ひとりで放っておく。いったいどうしたというのだろう。盲目《めくら》の兄と一緒にいるところをひとに見られるのを嫌《いや》がっているようにもみえる。もし、そうなら、すこしひどすぎるようだ。それも、戦争で失明されたのだというのに。
キャラコさんは、すこし腹が立ってきた。……しかし、なにか事情のあることか知れないし、自分が差し出るような性質のことではないので、そのことには触れなかった。
佐伯氏は、しばらく黙り込んでいたが、ふいにキャラコさんのほうへ顔を向けると、
「それにしても、あなたは、いったい、どういう方なのですか、お嬢さん?……声のようすだとたぶん、十九ぐらい……」
キャラコさんが、笑いだす。
「当りましたわ。……あたし、十九よ」
「ずっと、ここにおいでなのですか」
「ちょうど、半月になりますわ」
「失礼ですが、どなたと?」
「あたし、ひとり」
佐伯氏は、驚いたように、ほう、といって、
「どこかお悪いの?」
キャラコさんが、すこし、あかい顔をする。
「いいえ、ただ、こんなふうにしていますの。……妙でしょう。あたしも、妙でしょうがないのよ。あたしのような若い娘が、たったひとりでこんなところにブラブラしているなんて、あまりほめた話でありませんけど、すこしわけがあって、もうすこしの間こんなことをしていなくてはならないの。でも、そのわけは申しあげられませんわ」
佐伯氏が、つぶやくような声でいった。
「だれにだって、事情はあるもんだから……」
「でもね、あたし、悪い人間でないことだけはたしかよ」
キャラコさんがそういうと、佐伯氏は、低い声で笑いだした。
「誰がそんなふうに思うもんですか。それどころか、あなたのような親切なお嬢さんに逢ったのははじめてです」
「おや、どうしてでしょう」
「いえ、ちゃんと知ってますよ。……私があんなひどいことをいったのに、それにもかかわらず、あなたは心配して、とうとう宿の入口まで送ってくださいましたね。……ほんとうに、有難かった。……言葉では、ちょっといい現わしきれないほどです」
キャラコさんが、やさしく抗議した。
「あんなのが親切というのでしょうか。あなたをうるさがらせただけですわ。あたし、差し出がましいまねをしたばかりに、あんなにあなたをいら立たせてしまって申し訳ないと思っていましたの。あたし、出しゃばりで、ほんとうにいけないのよ」
「親切だといっていけなければ、たいへんに心の深いお嬢さんだと申しあげましょう。……あなたは私の歩く道の石ころをみなとり除《の》けてくださいましたね。ちゃんと知ってます」
キャラコさんは、閉口して黙り込んでしまった。
「……それから、二股《ふたまた》道のかどの木の枝に、石を入れた空鑵《あきかん》をつるして、風が吹くとカラカラ鳴るようにして置いてくだすった」
「…………」
「私は、その音をたよりに、迷わずに湖水のほうへ出てゆけるのです。帰るときも、またその通り、わき道へはいり込まずにすみます」
佐伯氏は、深い感動のこもった声で、
「……昨日まであんなものはありませんでした。……お嬢さん、あなたがしてくだすったのですね」
佐伯氏の口調が、あまり切実なので、キャラコさんは度を失って、思わずうつ向いてしまった。
「あなたが、してくだすったのですね?」
「…………」
「返事をしてくださらなくとも結構です。……あなたのような優しい方でなくて、誰れがあんなことをしてくれるでしょう。有難う、お嬢さん……」
佐伯氏は、とつぜん、眼ざましいほどに昂奮して、
「ありがとう、ありがとう。……このありふれた言葉を、私が、いま、どんな深い感情で叫んでいるか、とてもあなたにはおわかりにならないでしょう。……しかし、いつか、それがおわかりになる時が来たら、あなたが、なんの気なしにしてくだすった親切が、ひとりの男の人生に、どんなたいへんな影響をあたえたか、きっと了解なさるでしょう。……これだけ言ったのでは、なんのことだかおわかりになりますまいけど、あなたの親切のおかげで、いままで知らなかった新しい高い世界が、とつぜん私の前にひらかれたような気がしているのです。……ほんとうに、思いもかけなかった新しい世界が……」
そういうと、唇をふるわせながら、急に言葉をきってしまった。
佐伯氏は、戦場でいろいろ痛烈な経験をしたので、それで、なんでもないことに感じやすくなっているのに違いない。キャラコさんは、佐伯氏の感情を乱してはいけないと考えて、できるだけしずかにしていた。
しばらくすると、佐伯氏は蘆《あし》の中から木笛《フリュート》を取りあげて、ゆるやかに吹きはじめた。古い舞踏曲のようなもので、なんともいえない憂鬱な旋律だった。佐伯氏は、つまずいてはいくどもやり直しながら、終《しま》いまで吹きおえると、蘆の中へそっと木笛《フリュート》を置いた。
キャラコさんが、たずねた。
「なんだか悲しそうな曲ですね。それは、なんという名の曲?」
佐伯氏は、人がちがったような落ち着いたようすで、キャラコさんのほうへ向きかえりながら、
「これは、フランスの十七世紀ごろの古い舞踏曲で、『罪のあがない』という標題がついているんです。……舞踏曲にしては妙な名ですね。どんな意味なのか私にもわからない。でも、なんとなく好きで、こればかり吹いているんです。……それはそうと、私は、さっきから、あなたがどんな顔をしていられるのかと思って、いろいろに想像していたんです。……たぶん、やさしい美しい顔をしていらっしゃるのでしょうね」
キャラコさんが、例の、大きすぎる口をあいて、笑いだす。
「あたし、美しくもなければ、やさしい顔なんかもしていませんわ。…
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