み》をおしわけながら入口から走り出して行ってしまった。

 キャラコさんは、旅の身じたくをして箱根町から発動機艇《モーター・ボート》に乗り、湖尻《こじり》の桟橋で降りた。
 渚の向うに、毎日、佐伯氏と落ち合っていた疏水の蘆が見える。
 いろいろな思いが、しずかに心のうえを流れる。
 佐伯氏の過去に、いったいどのような事があったのか察することができないが、なにか、たいへんな不幸か、たいへんな悩みがあったのだという事だけはわかる。あの狂い出したようなようすを見るにつけても、それが、どんなにかひどいものだったろうと、思いやられるのである。
 ……疏水のほうから、木笛《フリュート》の音がゆるゆると流れてくる。
 空耳《そらみみ》ではなかった。佐伯氏がいつも吹く、あのやさしげな曲である。
 キャラコさんは、なつかしさに耐えられなくなって、小走《こばし》りしながら、蘆の間へ入ってゆくと、佐伯氏は木笛《フリュート》を吹いたまま、いつものように、すこし身をすさらせて、キャラコさんの席をつくった。
 キャラコさんは、そのそばへ肱《ひじ》をくッつけて坐った。
 佐伯氏は、もうあの黒い眼鏡をかけていなかった
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