さんが、蘆《あし》をわけて疏水《そすい》のほうへおりてゆくと、いつものところに佐伯氏が待っていて、きょうは、たいへんおそかったと、いった。キャラコさんといっしょにいることだけが、このごろの楽しみになっているふうだった。
見ると、佐伯氏の膝《ひざ》の上に英語の本が一冊のっている。キャラコさんが、おどろいて、たずねた。
「あなた、本がお読みになれるの」
佐伯氏は、悲しそうな微笑をしながら、
「私は、まず骨を折って点字で読みます。それから、その活字の本をこうして撫《な》で廻しながら、この中に、あんなすぐれた事が書いてあるのかと感慨にふけるのです。……こうして頁《ページ》の上をさすっていると、いろいろな文章がつぎつぎ記憶の中によみがえって来て、ちょうど眼で読んでいるような気持になれるのです。……未練《みれん》だと思うかも知れないけれど」
このごろは、心ないことばかり口走って佐伯氏を悲しませる。これも、自分の感情が足りないせいだと思って、キャラコさんは、そっと唇をかんだ。それにしても、眼のことに触れられるのを、こんなにもいやがっているひとに、あなたの眼はもうだめなのか、などとたずねるのは、
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