ンとした生活をしたいのだが、千万長者の相続人になったばかりに、窮屈な思いをしてこんなところに隠れていなくてはならない。本当の名を名乗ることさえできないのである。
 こんな淋しい山奥に年ごろの娘がたったひとりでのっそりしているのは、ずいぶん奇妙に見えるにちがいない。キャラコさんは女々《めめ》しいことはきらいだから、宿のひとたちにもいいわけがましいことはひと言もいわないが、かなり肩身の狭い思いをして暮らしている。
 キャラコさんに、父の長六閣下から、手紙で、当分のあいだ、家へ帰ることはまかりならぬと申し渡された。

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……当分本名を名乗ることはならぬ。名前をいう必要がある時はキャラコとだけいいなさい。それから、当分の間、いっさい新聞雑誌を読んではならぬ。友人のところへ手紙を出してはならぬ。右、命令す。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]父

 ならぬ、ならぬ、ならぬ、――長六閣下の濶達《かったつ》な文字は、ひとつひとつ八|字髯《じひげ》をはやし、キッと口を結んでキャラコさんをにらみつけていた。
 青天のへきれきである。どういう理由でこんな眼に逢わなければな
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