れて、何をいっているのか最後のところははっきりと聞えなかった。顔が土気《つちけ》色になり、ハンカチを出してはしきりに額をぬぐう。倒れるのではないかと思って、キャラコさんは、気が気でなく伸びあがって佐伯氏の顔ばかり見つめていた。
 佐伯氏は演壇に両手をついて首を垂れていたが、しばらくののち、顔をあげると、つぶやくような声でつづけた。
「……午後五時廿分、山際《やまぎわ》、葛野《くずの》両勇士|麾下《きか》の決死隊士によって光華門城頭高く日章旗が掲げられますと、伊藤中佐につづいて、……われわれ……」
 壇に手をついて、肩で大息をつき、
「われわれ、……一同……」
 もう、倒れる。……キャラコさんは、夢中になって、われともなく、
「ああ」
 と、大きな声をあげた。
 佐伯氏はギョッとしたように、急に顔をあげてキャラコさんのほうを眺めていたが、聴衆のほうへ向き直ると、とつぜん、
「申し訳ありません。……実に、どうも、不敵千万な……」
 と、いうと、声をあげて演壇の上へ泣き伏してしまった。
 講堂の一同は、何事かと眼をそばだてているうちに、佐伯氏は、錯乱したように演壇を駆けおりると、人波《ひとなみ》をおしわけながら入口から走り出して行ってしまった。

 キャラコさんは、旅の身じたくをして箱根町から発動機艇《モーター・ボート》に乗り、湖尻《こじり》の桟橋で降りた。
 渚の向うに、毎日、佐伯氏と落ち合っていた疏水の蘆が見える。
 いろいろな思いが、しずかに心のうえを流れる。
 佐伯氏の過去に、いったいどのような事があったのか察することができないが、なにか、たいへんな不幸か、たいへんな悩みがあったのだという事だけはわかる。あの狂い出したようなようすを見るにつけても、それが、どんなにかひどいものだったろうと、思いやられるのである。
 ……疏水のほうから、木笛《フリュート》の音がゆるゆると流れてくる。
 空耳《そらみみ》ではなかった。佐伯氏がいつも吹く、あのやさしげな曲である。
 キャラコさんは、なつかしさに耐えられなくなって、小走《こばし》りしながら、蘆の間へ入ってゆくと、佐伯氏は木笛《フリュート》を吹いたまま、いつものように、すこし身をすさらせて、キャラコさんの席をつくった。
 キャラコさんは、そのそばへ肱《ひじ》をくッつけて坐った。
 佐伯氏は、もうあの黒い眼鏡をかけていなかった
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