あげることができるんです。どうか、そんなことをおっしゃらないで……」
茜さんは、切りつけるような調子で、
「結構よ。放って置いてちょうだい。……あたし、兄を盲目《めくら》のままにして置きたいんです」
キャラコさんは、自分の頬《ほほ》にクワッと血がのぼってくるのがわかった。
「茜さん、あなた……」
茜さんは、空うそぶいて、せせら笑うように、いった。
「盲目の兄! なんて、ずいぶん、浪漫的《ロマンチック》じゃないこと?」
とりつくしまもなかった。
六
キャラコさんは、これを機会に、秋作氏のすすめにしたがって、すこしの間ほうぼうを歩いて見ることにきめた。
箱根町の小さな旅館へ引き移って、旅行の支度をしようと思って町へ買物に出ると、町かどの電柱に、脇坂《わきざか》部隊の戦傷勇士佐伯軍曹が、本町有志の熱心な懇請《こんせい》によって、今日午後一時から処女会の講堂で実戦談を行なわれることになったというビラがはりだしてあった。
蘆《あし》の間で、ほのぼのと木笛《フリュート》を吹いていたわびしそうな姿が眼にうかぶ。あの佐伯氏がどんな切実な働きをしたのか聴いてみたくなった。
会場へ行くと、入口に大きな国旗をつるし、
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南京《ナンキン》光華門突入決死隊の一人、佐伯軍曹軍事講演会々場
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という大きな紙の立看板がたてかけられてあった。
講堂にはもう大勢の聴衆がつめかけ、演壇の両側には町の役員らしい人たちがズラリとい並んでいる、前列のはしに、佐伯氏が、すこしうつ向き加減になって、茜さんと並んで掛けていた。
キャラコさんは、うしろから突かれてとうとう演壇から二列目の椅子のところまで押しだされ前の人の背中に隠れるようにして坐っていた。
定刻になって、司会者のながながしい紹介が終ると、とどろくような拍手が起こり、佐伯氏が茜さんに手をひかれて、演壇あがってきた。
昂奮しているせいか、いつもより顔の色が悪く、ソワソワして、まるっきり落ち着きがなかった。水差しの水を一杯飲んでふるえるような手つきで唇をぬぐうと、聞きとりにくいほどの低い声ではなしはじめた。
「……南京城攻略戦は、……南京城壁、東南方から開始されまして、……十日の午後五時、脇坂部隊は、工兵部隊の決死的城門破壊と間髪を入れず、光華門の一角を占領……」
声がとぎ
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