。
木笛《フリュート》は蘆の中に置いてあるが、佐伯氏の姿は見えない。四時ごろまで待っていたがやって来ない。もしや水ぎわにでもいるのかとそのほうを見廻したが、渚《なぎさ》には人の影らしいものもなかった。
キャラコさんは手帳の紙に、
佐伯さま。明後日《あさって》のあさ、ここへ、ヘルムショルツ先生の高弟が来ます。どうぞ、あなたの眼をふたつ貸してちょうだい。
と、走り書きをし、それを電報用紙の中へ細長くたたみ込み、その表に、(茜《あかね》さま、これを読んでさしあげてくださいませ)と、書いて、それを木笛《フリュート》に結びつけた。
それから、三十分ほどすると、疏水《そすい》の向う側から佐伯氏がやって来た。
木笛《フリュート》のあるあたりに顔を向けて、ぼんやりと立っていたが、ツと手を伸ばして手紙をほどきとるとむこうを向いて、立ったままでそれを読み出した。
しばらくののち、手紙を持った手がだらりと下へ垂れる。それから、左手をいそいで眼のほうへ持って行った。
佐伯氏は、こちらへ背中を向けたままいつまでも立っている。佐伯氏の手の中で、キャラコさんの手紙がヒラヒラと風にひるがえっていた。
五
次の朝、廊下の窓のそばの籐椅子《とういす》に掛けて本を読んでいると、廊下の向うのはしから茜《あかね》さんがひどくまっすぐな姿勢でこちらへちかづいて来た。
ウールのレーンコートを着て、腕に外套をひっかけている。瘠《や》せているので、ほんとうの身丈《みのたけ》よりずっと長身に見える。面《おも》ざしは冷たすぎるほど端正《たんせい》で、象牙のような冴《さ》えかえった色をしていた。
廿二三だと思われるのに、どこか、ひどく老《ふ》けたところがあって、娘がいきなり大人になったような妙な感じをあたえる。
すらりと、キャラコさんのそばに立って、
「いいお天気ね。発動機艇《モーター・ボート》で箱根町のほうへ出かけてみません? すこし、お話したいこともあるのよ」
否応いわせない、おしつけるような調子があった。
キャラコさんは、きのうの返事がきけるのだと思って、急いで自分の部屋へ行って帽子と外套を持ってきた。
二人は桟橋《さんばし》まで歩いて行ってそこで、発動機艇《モーター・ボート》に乗った。
とりわけ、きょうは陽ざしが熱く、湖の面《おもて》はガラスのようにきらめいて、深
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