本を読んでやったりした。佐伯氏は戦場でたいへん勇敢な働きをしたひとだということだったが、自分では、いっさい戦争の話にふれなかった。キャラコさんには、それが奥ゆかしく思われた。あまり実感がはげしくて、かるがるしく口に出す気になれないのだろうと思って、戦争のことはなるたけたずねないようにした。

     四
 キャラコさんは、たったひとつ佐伯氏にたずねたいことがある。佐伯氏の眼が本当に絶望なのかどうかということである。今までいく十|度《ど》、口さきまで出かかったか知れないが、そんなことにふれてはいけないのだと思って、しんぼうしていたのだった。しかし、今日はどうしても切り出してみようと決心した。
 秋作氏の親友で、キャラコさんを本当の妹のようにかあいがってくれる立上《たてがみ》氏という若い博士が、ついこのころ、ミュンヘンから帰って来た。
 秋作氏は、立上のやつ、独逸《ドイツ》から近代眼科学の精髄《せいずい》をかっぱらって来やがったそうだ。と、恐悦《きょうえつ》しながらキャラコさんに話してきかせた。もし、佐伯氏にその気があるなら、いちどぜひ立上氏に診《み》させたいと思うのである。
 キャラコさんが、蘆《あし》をわけて疏水《そすい》のほうへおりてゆくと、いつものところに佐伯氏が待っていて、きょうは、たいへんおそかったと、いった。キャラコさんといっしょにいることだけが、このごろの楽しみになっているふうだった。
 見ると、佐伯氏の膝《ひざ》の上に英語の本が一冊のっている。キャラコさんが、おどろいて、たずねた。
「あなた、本がお読みになれるの」
 佐伯氏は、悲しそうな微笑をしながら、
「私は、まず骨を折って点字で読みます。それから、その活字の本をこうして撫《な》で廻しながら、この中に、あんなすぐれた事が書いてあるのかと感慨にふけるのです。……こうして頁《ページ》の上をさすっていると、いろいろな文章がつぎつぎ記憶の中によみがえって来て、ちょうど眼で読んでいるような気持になれるのです。……未練《みれん》だと思うかも知れないけれど」
 このごろは、心ないことばかり口走って佐伯氏を悲しませる。これも、自分の感情が足りないせいだと思って、キャラコさんは、そっと唇をかんだ。それにしても、眼のことに触れられるのを、こんなにもいやがっているひとに、あなたの眼はもうだめなのか、などとたずねるのは、
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