してはいけないと思っただけなの。……お差しつかえなかったらここへ坐ってよ」
へどもどしながらそばへ並んで坐ると、佐伯氏は頬骨《ほおぼね》の上のところをすこしあからめながら、
「きのうはずいぶん失礼なことを申しました。どうか、ゆるしてください。疲れてイライラしていたせいなんです。……おわかりになりますまいが、こんな不自由な身体で長い旅行をすると、思うようにゆかないことが多くて、ついいら立ってしまうのです」
「どんなにかご不自由なことでしょうね、お察ししますわ」
「有難う。……感のわるいところへ持ってきて、すこしわがままなもんだから、なんでもないことにすぐ腹を立ててしまうのです。結局、自分の損なんだけど……」
「まだお馴れならないせいもあるでしょうし……」
「そうですよ、なにしろ、俄かめくら[#「めくら」に傍点]でね」
「そんな意味でいったのではありませんわ」
「気になさらないでください。どうしてでしょうかね、つい、こんな口調になってしまうのです。……眼が見えなくなったという事実にたいしては、すこしも遺憾はないのですが、日常の直接なことにあまり不便が多すぎるので、じぶんで始末がつかなくなってしまうのです」
キャラコさんは、だまって佐伯氏の顔をながめていた。それにしても、あの茜《あかね》さんというひとがなぜもっと佐伯氏をいたわってあげないのだろうと考えていた。散歩についてくることもなければ、廊下などで手をひいてやるところも見たことがない。いつも、ひとりで放っておく。いったいどうしたというのだろう。盲目《めくら》の兄と一緒にいるところをひとに見られるのを嫌《いや》がっているようにもみえる。もし、そうなら、すこしひどすぎるようだ。それも、戦争で失明されたのだというのに。
キャラコさんは、すこし腹が立ってきた。……しかし、なにか事情のあることか知れないし、自分が差し出るような性質のことではないので、そのことには触れなかった。
佐伯氏は、しばらく黙り込んでいたが、ふいにキャラコさんのほうへ顔を向けると、
「それにしても、あなたは、いったい、どういう方なのですか、お嬢さん?……声のようすだとたぶん、十九ぐらい……」
キャラコさんが、笑いだす。
「当りましたわ。……あたし、十九よ」
「ずっと、ここにおいでなのですか」
「ちょうど、半月になりますわ」
「失礼ですが、どなたと?
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