あまり甘やかしすぎたママの罪なのよ。……ママを撲《ぶ》ってちょうだい。……ママを撲《ぶ》ってちょうだい」
 と、いいながら、頑是《がんぜ》ない子供のように泣き出した。

 それから間もなく、キャラコさんがホテルへチャーミングさんを迎いに行った。
 森川夫人は、広間の煖炉のそばで梓さんの愛人がやってくるのを待っていたが、おいおい、気が落着くにつれ、いま自分の娘に襲いかかっている危険がどんなひどいものか、だんだんはっきりして来た。
 梓の話をいろいろ思い合わせると、感じやすい少女の心につけこむその男の、抜け目のない慇懃なやり方が、何もかもすっかりわかるような気がする。どう考えても、下劣な|女蕩し《セジュクトウル》のやり口だとしか思われない。もし、そうだったら、どんなことがあっても手をひかせなくてはならないと決心した。
 一時間ほどすると、チャーミングさんが山小屋《ヒュッテ》へやって来た。顔色はいつもより蒼《あお》くなり、眼つきはいっそう沈んで、ひどい不幸にあったひとのようなようすをしていた。
 キャラコさんの案内で広間へ入って来たチャーミングさんをひと眼見ると、森川夫人はたちまち蝋《ろう》のように真っ白くなり、よろめくように椅子から立ちあがった。

     五
 チャーミングさんは、森川夫人の妹の房枝《ふさえ》さんが、外務参事官のお父さんと巴里《パリー》に住んでいたころの愛人だった。
 チャーミングさんはそのころから画の勉強をしていて、二三の画商に才能を認められていたが、画かきというよりはむしろ詩人といったほうがいいような極端な夢想家で、仕事をするよりは寝ころんで夢を見ている時間のほうが多かった。ひどい|移り気《キャプリシュウ》で、何かにひどく熱中するかと思うと、すぐ飽きて、次の日になると瘧《おこり》でも落ちたように見向きもしなくなる。熱烈で慇懃で聡明で執拗で冷酷で、……要するに、生まれながらあらゆる悪魔的なものを身につけたような男だった。
 房枝さんは、そのころ二十歳《はたち》になったばかりの心のやさしい娘だったが、わずか半年ほど楽しい日を味わっただけで、古い上靴のようにあっさりと捨てられてしまった。薄情な愛人の心をひきとめようとして、若い娘が考えつく限りのことをしたが、結局、つらい思いをしてあきらめるほかなかった。そして、その年の秋、胸を病《や》んで死んでしまった。
 その後《ご》、チャーミングさんの絵がリュクサンブウルの博物館《ミュウゼ》にはいったという評判や、相変らず独身で南|仏蘭西《フランス》を遊び廻っているという噂を耳にしたが、この七八年、ふっつりと風聞《ふうぶん》をきかなくなった。
 そのチャーミングさんが、こんどは梓の愛人として、十八年もたったいま、とつぜん森川夫人の前に現われて来た。
 チャーミングさんは、すらりとした長身をゆったりと椅子の中にのばし、沈鬱《メランコリック》な眼ざしで静かに煖炉《いろり》の火を見つめている。長らくの放蕩《ほうとう》で、どこか疲れたようなようすをしているが、美しい面ざしはむかしとすこしも変わらない。
 森川夫人は、思わず絶望しうめき声をあげた。
 じっさい、女の敵の中で、チャーミングさん以上に恐ろしい相手はない。どの女も、うち勝つことができなくて、みな、この男に滅ぼされてしまった。とても自分などが太刀打《たちう》ちできる相手ではないと思うと、心が萎《な》えたようになって、何をいうのも覚束《おぼつか》ない気がするのだった。
 しかし、この男のために、妹までか、だいじなたったひとりの娘の幸福までがむざむざとふみにじられるのかと思うと、心の底から怒りがわいて来て、どんなことがあっても娘を奪いかえさなくてはならないと奮い立った。もう必死だった。子供の愛情のまえには、なりもふりもかまわなくなる、母のあの崇高な錯乱だった。
 端正《たんせい》に膝《ひざ》に手を置いてしずかに微笑しながら、森川夫人はこころのなかで泣いていた。悲しみとも憤《いきどお》りともつかぬ痛烈な涙が、胸の裏側をしとどに流れおちた。
「……あなたは、いつもお美しいわね。あれから、もう何年になりますかしら。ちっともお変わりにならないわ」
 チャーミングさんの頬に、瞬間、血の色がさし、悩ましそうな眼ざしで、森川夫人を見つめながら、
「十八年! ……あのひとのことを、たった一日も忘れたことのない十八年……」
 感情を押ししずめるように、すこし、息をとめてから、
「……私はさんざんに放蕩をしましたが、いつも、私の心の奥に住んでた、たったひとつの俤《おもかげ》は、いちばんはじめに、私の胸に訪れた、|伊太利風の夏帽子《シャポオ・ド・パイユ・デ・イタリイ》をかぶった、シャヴァンヌの絵のようなあのひとの俤だったのです」
 森川夫人は、思わず怒りに胸をふるわせて、叫ぶような声で、いった。
「房枝は、あなたに捨てられた女よ」
 チャーミングさんは、静かに手でおさえながら、
「……ツルゲーネフの小説にありますね。……広い世の中へ出て行ったら、こんなちっぽけな田舎娘とくらべものにならぬような美しいやさしい女が大勢いると。……その男は、すがりつくようにする娘をふり捨てて都会へ出て行った。……しかし、白髪《しらが》になるまで、その田舎娘ほどやさしい、そして真実な女にめぐり逢うことができなかった。……この、後悔ほどつらく悲しいものはありません。これは、放蕩児が受けなければならぬ劫罪《ごうざい》なのです。……私は、放蕩に疲れきったあとで、ようやく、真実な愛のねうちをさとったのでした。……私はむかしのひとの俤を探して歩きました。……それから、もう何年になるでしょう。……そして、この期《ご》になって、思いがけなく落葉松にかこまれた池のそばでその俤に出逢ったのです。……むかしのあのひとのように清らかで、むかしのあのひとに生き写しでした。……夢でなければ、それこそ不思議だと、その時、私はそう思いました」
 なんという不思議な男だろう。ものうげな、しみじみとしたその声をきいていると、ひき込まれて思わず夢心地になる。
 森川夫人は、いっしんに気をとりなおして、
「さあ、もうずいぶんしゃべりましたね。そのくらいにして置いてください。……あなたは、梓があたしの娘だとわかったら、あの娘からだまって手をひいてくださるでしょうね。……あの娘の幸福を思ったら、どうぞ、黙ってここから出て行って、二度と梓の前に現われないでください」
 チャーミングさんは、悲しそうに首を振って、
「でも、私に別れたら、梓さんはきっと死んでしまうでしょう」
 森川夫人の頭のすみを、あわれに取り乱した梓さんの姿がチラとよぎった。やるせない涙がクッと胸《むな》さきにつっかけて来た。梓は、ほんとうに死ぬかも知れない。妹もあの時そうだった。いよいよ最後の決心をしなければならない時が来たと思った。
(たとえ、どんなひどい嘘をついても!)
 森川夫人は、微笑しながら、
「あなたは、ほんとうにあの娘を愛してらっしゃいますか」
「あなたは、何んということをおたずねになるのです」
「そんなら、……もし、そうなら、あなたは、あの娘を死なせるようなことはなさらないでしょうね」
「いのちがなんでしょう! ……夫人《おく》さん、あなたは愛情というものを、たいへん低く見ていらっしゃる」
 森川夫人は、しずかに、いった。
「愛情というものを信ずればこそ、そう申しあげるのです。……朝治《あさじ》さん、ほんとうのことをうち明けますが、じつは、梓は房枝の娘なのです。これは、どういう意味か、あなたにはよくおわかりになるでしょう。あたしの申しあげることは、これだけですわ」
 それから、十五分ほどすると、チャーミングさんは、影のようになって、よろよろと山小屋《ヒュッテ》を出て行った。

 夕食がはじまったが、梓さんは広間へ降りてこない。
 チャーミングさんが山小屋《ヒュッテ》へやって来ると、キャラコさんは、みなをひとまとめにして乾燥室へ押し込んで『おはなし』をはじめた。梓さんは、すっかり落ち着いてニコニコしながらきいていたが、三十分ほど前、ちょっと、といって二階のほうへあがっていったきり、乾燥室へ戻ってこなかった。みなは寝室へ長くなりに行ったのだとばかし思っていたが、部屋の中は、からっぽだった。
 玄関へ行ってみると、梓さんのスキーがなかった。森川夫人が思い切った告白をしたすぐあとで、玄関のほうで、何かかすかな物音がした。梓さんはたぶん、そのとき出て行ったのだろう。
 森川夫人は蒼《あお》くなって泣き出した。もの狂わしく、キャラコさんを広間へ呼び入れると、チャーミングさんに手をひかせるために、梓さんがチャーミングさんの娘だなどと、ありもしない事を言い切った事情を手短かに物語って、
「キャラコさん、梓はあのお話をきいて悲しがって死にに行ったんです。……どうぞ、梓を助けてね、助けてちょうだい」
 キャラコさんが玄関から駆け出して、スロープを見おろすと、さっき降った雪の上に、山のうらの白樺の平地のほうにつづいている真新しいシュプールを見つけた。梓さんは木戸池へ行ったのだ。森川夫人が、泣きながらいった。
「玄関に物音がしたときに梓が出て行ったのだとすれば、今ごろはもうだいぶ行っているわけね。今から行って、うまく追いつけるでしょうか」
 トレールを迂回《うかい》せずに、尾根を伝っていきなり天狗岩の上へ出て、藪《やぶ》の急斜面を池のほうへ滑降しさえすれば、どうにか追いつける自信があった。
「ねえ、追いつけるでしょうか」
 キャラコさんは、ちょっと考えてから、しっかりした声でこたえた。
「やってみますわ」
「丸池ヒュッテの男たちに一緒に行ってもらわなくてもいいかしら」
「あたしひとりのほうがいいと思いますわ。あまり、おおげさにしないほうが」
 夫人は、不安そうに、
「それもそうね」
 と、いって、両手の中でギュッとキャラコさんの手をにぎりしめると、
「キャラコさん、ほんとうにお願いしてよ。あなただけが頼りなのですから」
「ええ」
「どうぞ、梓を助けてやって、ちょうだい」
 キャラコさんが、強くうなずく。
「どんなことがあっても!」
 おろおろと取り乱す夫人を励ますように、その腕へ手をかけてゆすりながら、元気な声で、いった。
「だいじょうぶですわ、おばさま、そんなにご心配なさらなくとも。……きっと無事に連れて帰って来ますわ。お約束してよ」
 キャラコさんは、たいへん落ち着いていた。すくなくとも、表面はそんなふうに見えた。あわてふためく芳衛さんやトクさんを差図して魔法瓶《テルモス》に熱い紅茶を詰めさせ、厚い毛の下着とブランデーをルックザックにいれて背負うと、キュッと口を結んで玄関からすべりだした。
 雪の上に月が照り、空も、斜面も、林も、影も、なにもかも、みな真っ青で、まるで夢幻《むげん》の世界のようだった。

     六
 五人は、嵐に追いまくられた小鳥のようなようすで、二階の寝室でひと固まりになって坐っていた。芳衛さんは揺椅子《ゆりいす》のなかへ沈みこみ、トクさんは寝室のはしへ腰をかけ、鮎子さんとおしゃまのユキ坊やは、しんとした夜の雪山《ゆきやま》を眺めながらためいきをついていた。陽気なピロちゃんだけは、例によって、床の上へ胡坐《あぐら》をかいてのん気な顔で西洋雑誌の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵《さしえ》を眺めている。
(梓さんが、自殺するために池のほうへ急いでいる……)
 あまり唐突すぎて、どう考えていいのか、理性でも感情でもうまく処理することができなかった。
 鮎子さんが、長いためいきをつく。窓ガラスに額《ひたい》をあてたまま、虫の鳴くような声でつぶやいた。
「キャラコさん、うまくやってくれるといいな。……もう、どのへんまで行ったかしら……」
 陽気なピロちゃんが、ゆっくりと頁《ページ》を繰りながら、大きな声でいった。
「心配しなくとも大丈夫だよ。きっと帰ってくる」
 ユキ坊やが、ふッ、と短
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