なくてはならないと考えていた。
 二階で、ピロちゃんが、とぎれとぎれにハーモニカを吹いている。なにか妙なぐあいだった。
 キャラコさんは、みなに気づかれないように揺椅子《ゆりいす》から立ちあがると、そっと広間を出て二階へあがって行った。
 ピロちゃんは、こちらへ背中を向けて窓のそばに坐り、しゃくりあげながらハーモニカを吹いている。
 キャラコさんは、そのそばに寄って行って、肩に手を置きながら、
「ピロちゃん、どうしたの」
 と、しずかにたずねると、ピロちゃんは急にハーモニカを投げすてて、窓枠《まどわく》にしがみついて泣き出した。
「……あたし、梓さんが、どこにいるか知っているの」
 キャラコさんの胸のところがドキンといった。できるだけ気軽な口調でたずねた。
「そう、どこにいるの」
 ピロちゃんはキャラコさんの腕に手をかけて、
「告げ口だと思わないでちょうだい、ね。……梓さんは、チャーミングさんのところへ行っているの」
「ピロちゃん、あなた、どうしてそんなこと知ってるの」
「あたし、見たの。きのう、二人で散歩しているのを」
 そういって、両手を顔にあてていっそう劇《はげ》しく泣きだした。
「……キャラコさん、あなた、……あたし、いま、……どんなに悲しいか、……わからないでしょう。あたしも、チャーミングさんを好きだったの。……でも、もう、いいの」
 急いで涙をふくと、またハーモニカを取り上げて、それを吹きながら階下《した》へ降りて行った。
 キャラコさんは寝台のはしに腰をおろして、ジッと考えていた。
 二人の交際が、どこまで進んでいるのか知らないが、思い過ごしすることも、多寡《たか》をくくることも、どちらも同様に危険だと思った。また、二人の関係がどうあろうと、自分などの口を出せるような事柄ではないのだから、のみこんだふうにうまく取りはからおうとするような軽薄なまねをしてはならないと、よく自分の心にいいきかせた。さしあたって自分のすべきことは、あまり遅くならないうちに山小屋《ヒュッテ》に連れかえることと、一日も早く東京へ引きあげるように提議することだけだと考えた。
 キャラコさんは、首にマフラーを巻きつけてそっと玄関からすべり出すと、天狗岩のしたまで行き、ギャップを左に巻いて岩の上へ登って行った。
 截《き》り立った断崖の上へ立って見おろすと、陰気な落葉松《からまつ》の林にかこまれた真っ青な木戸池がすぐ眼の下に見える。二人は、池のそばの、何ひとつ物音のきこえないしんとした林の中に並んで坐っていた。二人ながら憂鬱なようすでおし黙ったままいつまでたっても身動きもしない。夕陽が薄れかけ、落葉松の長い長い影が雪の上でよろめいていた。
 キャラコさんは、二人のようすをひと眼見るなり、自分が考えていたよりも、もっとたいへんなことになりかけているような気がして、思わず胸がふるえた。
 キャラコさんは、梓さんを見つけたら、気軽に誘って連れかえるつもりだったが、このようすを見ると、すぐ思いとまった。誘ったところで、しょせん無駄だとさとったからである。
 キャラコさんは、小さなためいきをひとつつくと、山小屋《ヒュッテ》の方へひきかえしながら、祈るように心の中で、いった。
「どうぞ、早く帰って、ちょうだい」
 山小屋《ヒュッテ》へ帰ると、夕食の支度ができていて、みなが、梓さんとキャラコさんを待っていた。煖炉のそばへ集まって心配そうな顔をして黙り込んでいた。だれも同じことをかんがえているのだろうが、口に出していうものはなかった。
 六時をうつと、キャラコさんはありったけの燭台を持ち出して蝋燭《ろうそく》に火をつけて、それをズラリと窓ぎわへ並べ立てた。
 山小屋《ヒュッテ》の窓々《まどまど》は、暗い海を照らす灯台のように、明るく、温かくまたたいた。暴風《あらし》の海へ出た肉親の帰りを待つような真剣な顔つきで、いっしんに窓のそとの物音に耳を立てていた。誰も夕食をするものはなかった。
 五人のうちで、陽気なピロちゃんがいちばんしっかりしていて、梓さんがいつも坐る椅子を煖炉のそばへ運んだり、梓さんの上靴を暖めたりして、ひとりで甲斐がいしく働いていた。そして、
「うん、もうじき帰ってくる」
 と、いくども同じことをつぶやいた。
 七時すぎになって、ようやく梓さんが帰って来た。
 唇まで紫色になって、歯の根も合わないように身体をふるわせながら、眼を伏せて煖炉のほうへ寄って来た。裾《すそ》にも髪にも氷がからみつき、涙をもよおすようなあわれなようすをしていた。
 みな、涙ぐみながら、てんでに毛布やクッションを持ち出してきて、幾重《いくえ》にも梓さんの身体に巻きつけて『着ぶくれ人形』のようにしてしまった。
 陽気なピロちゃんが、熱い紅茶を持ってきて、梓さんの口もとへもって行った。
「これ、飲みなちゃいね、温《あっ》たかくなるからさ」
 夕食がすむと、思い立ったように、みなが大騒ぎをはじめた。おおげさなだけで、ちっとも活気がなかった。梓さんは、大きな眼をあけて、悲しそうにそれを眺めていた。
 ユキ坊やと鮎子さんが、手をとり合っていそいで広間を出て行ったが、しばらくすると、二人とも眼を真っ赤にして帰ってきた。
 キャラコさんは、梓さんを朝までしっかりと腕の中に抱いていた。
 暁方《あけがた》になって、梓さんが、ひくい声で、ささやいた。
「ママに、来てくれるように、ゆうべ電報をうったの」

     四
 次の日の十時ごろ、森川夫人があわてて駆けつけて来た。昨夜《ゆうべ》、汽車の中ですこしも眠らなかったとみえて、ひどく膚《はだ》を荒していた。
 山小屋《ヒュッテ》につくとすぐ、森川夫人がキャラコさんを二階の部屋へ呼んだ。
「キャラコさん、いったい、何があったの」
 キャラコさんは、自分の知っているだけのことを率直につげた。
 森川夫人は、むしろ、ほっとしたようなようすで、いった。
「そんなことだったの。……いやなひとね、そんなことで、あたしをこんなところまで呼びつけるなんて」
 それでも、さすがに心配らしく、
「それで、どんなふうなの。あなた、きいてくだすって?」
 キャラコさんは森川夫人の顔を見つめながら、こたえた。
「いいえ、なにも。……あたしがきいたって、どうにもしようのないことですから」
 森川夫人は、すこし顔をあからめて、
「それはそうね。……では、梓を呼んでくださらない。あたしからよくきいてみますから。……よかったら、あなたもここにいてちょうだい。……二人っきりだと、かえって話しにくいかも知れませんから」
 と、笑いながら、いった。
 入って来た梓さんのようすを見ると、森川夫人の笑いはいっぺんにけしとんでしまった。
「梓さん、あなた、まあ、どうしたの。そんなに痩《や》せてしまって!」
 梓さんは顔じゅうが眼ばかりになったような大きな眼で森川夫人の顔を見つめていたが、突然、気がちがったように、
「ママ!……ママ!……」
 と、とほうもない大きな声で叫んだ。
 森川夫人は、それだけで、もう、おろおろと取り乱し、
「梓《あっ》ちゃん、あなた、どうしたの、そんな大きな声をして。……ママに御用があるなら、いってみてちょうだい。もうすこし、しずかにね」
 梓さんは、両手で森川夫人の手首をつかむと、ギュッと力いっぱいに握りしめながら、
「ママ! あたし、その方と結婚するお約束をしたのよ。反対したりしないでね!」
「まあ、困ったひとね。急にそんなことをいい出して。……あなた、ママにそんな話をするの、すこし、早すぎやしない?」
 梓さんは、怒ったような顔つきになって、
「あたし、もう、子供じゃありません」
 森川夫人は、ぎょっとしたようすで梓さんの顔を眺めていたが、救いを求めるような眼つきでキャラコさんのほうへふりかえった。
 小さな時、脳をわずらったことのある気の毒な森川夫人は、こんな話になると頭の奥のほうがクラクラして、どうしていいかわからなくなってしまうのだった。
 それにしても、梓さんはいったい何をいいだすつもりなんだろう。何かおそろしいことをぶちまけそうで、キャラコさんは、すこし恐《こわ》くなって来た。
 森川夫人は、必死な微笑をうかべながら、
「そう、あなたはもう子供じゃないのね。……そんなら、どんなふうに、その方が好きになったか、ママに話せるわね」
 梓さんは、まるで暗記でもするような、抑揚《よくよう》のない調子でいいだした。
「ええ、話せます。……その方はね、画の勉強をして、長い間たいへん奮闘したひとなの。いろんなつらい目にあっても、絶望せずにいっしょうけんめいにやり通したのよ。……そんな話をしていると、あまり悲しいことばかりで、その方は泣き出してあとをつづけることができなくなるの。そして、その気持をいろいろなたとえをひいてあたしに説明してくださるの。あたし、そのお話をきいていると、なんともいえないほど気持が沈んできて、急におとなになったような気がするんです」
「それで、あなたのほうでは、どんなお話をするの」
「あたし、まだ子供だから、あなたを慰めてあげることはできませんね、って」
「すると、その方は、どうおっしゃるの?」
「いいえ、あなたは、どんな大人よりもっと大人ですって、おっしゃるの。聡明でもなく、心もやさしくないひとは、いくつになっても子供とおなじなのですから、って。……だから、あなたがこうして私のそばにいてくださるだけで、ずいぶん元気が出るんです。ずっとずっと長くそばにいてくだすったら、もっともっと勇気が出るでしょう、って。……だから、あたし、その方と結婚することにしたの」
「あなたが、結婚しようといったのね」
「いいえ、最初はあの方がおっしゃったのよ。お互いに、こんなに好きになった以上、結婚するのが本当だって。……あたしが結婚してあげなければ、あの方は死んでしまうかも知れないわ。……もういちどお目にかかれるでしょうね。もし、もうこれでお目にかかれないんなら、私は、たぶん、もう生きていません、って」
 梓さんは、ちょっと言葉を切ると、急に眼にいっぱい涙をためて、ほとばしるような声で叫んだ。
「あたしだってそうよ。ママ、あたしだって、そうなの!」
 森川夫人は弱りきった心をおしかくそうとするように、すこしきつい口調になって、
「あたし、あまりあなたを甘やかしすぎたようね。あなたはまだやっと十八になったばかりなのよ。それに、その方はあなたより二十も二十五も年上の方なのでしょう。もう、およしなさいね、そんなお話は……。ママも聞かなかったことにしますから」
「お願いです、ママ!」
「いいえ。……ママはその願いをきいてあげることはできませんが、あなたをほんとうに幸福にすることは知っているつもりです。どうか、ママのいうことをきいて、ちょうだい」
「ママの考えていらっしゃる幸福が、そのままあたしの幸福になると考えていらっしゃるならそれはあまりママの勝手です。……ママの考えている幸福でなく、あたしが本当にしあわせになれるようにして、ちょうだい」
「ともかく、その話は、もうよしましょうね。あまり、馬鹿げているから」
 梓さんは、みるみる真っ青な顔になって、
「ママ、それじゃ、あたし、死んでもいい?」
 と、痙攣《ひきつ》ったように叫ぶと、キャラコさんのほうへ両手を差し出しながら、
「たすけて、ね。……たすけて、ちょうだい」
 キャラコさんは梓さんのそばへ駆け寄って、やさしくその手をとりながら、
「どうしたの、梓さん」
 梓さんは、錯乱したようにキャラコさんの手をにぎりしめて、
「キャラコさん、あたしを、死なせないで!」
 そして、寝台の上に突っぷすと、今にも絶えいるかと思うばかりに劇《はげ》しく泣き出した。
 このあわれなようすを見ると、森川夫人は我慢も耐《こら》え性《しょう》もなくなったように梓さんのそばに走り寄って、腕の中に抱きとり、
「梓《あっ》ちゃん、ママがきっといいようにしてあげますから、そんなに泣かないで、ちょうだい。あなたをこんなふうにしたのは、
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