、なんていったっけ、アド……」
陽気なピロちゃんが、うっとりした声でこたえた。
「アドルフ・マンジュウよ」
「そう。……アドルフ・マンジュウのような感じのひとなの。顎《あご》がすべすべして、蒼白い色をしてるのよ」
画の上手なトクさんが訂正した。
「オリーヴ色よ」
「……オリーヴ色でね、メランコリックな眼つきをしているの。とても上品で、丁寧なの。……素敵でしょう?」
キャラコさんが、笑いだす。
「ええ、素敵ね。それで、どうしたの」
「……それから、……あたし、うまくいえないわ。梓さん、あなた、おっしゃい」
梓さんは、れいの熱っぽい眼つきをして、
「あたし、いえないわ。芳衛さん、あなたおっしゃい」
詩人の芳衛さんは、眼を伏せて、いやいやした。
キャラコさんは、からかうような眼つきで、みなの顔を見廻しながら、
「おやおや、すっかり優《やさ》しくなってしまったのね」
チビの鮎子さんが元気な声で、やっつけた。
「ええ、そうなの。あたしたち、そのひとに逢うと、急に胸がドキドキして、すべって転んじゃうのよ。芳衛さんも梓さんも転んだわよ。ピロちゃんなんか、お辞儀をしそこなって前へつんのめっちゃったんだア」
うっとりするようなその上品な紳士は、丸池のそばの志賀高原ホテルに泊っていて、あまり人の来ない木戸池やモングチ沢のスロープで、静寂な雪山をひとりで楽しんでいるのらしかった。
六人がその紳士に逢ったのは、天狗岩の一本松の下だった。たいへんにスマートな身なりをしたその紳士は、南側のスロープをみごとなスノウ・プルウで降りて来て、六人に丁寧に目礼してすべり去った。
あまり美しく、あまり上品なようすなので、みなうっとりしてしまった。夢からさめると、詩人の芳衛さんが、その紳士に、『チャーミング・プリンス』と名をつけた。みな、心からこの命名に賛成した。
その紳士は、午後になると、きまって志賀ヒュッテの方へ出かけてゆくことがわかったので、そうそうに昼飯をすませると、みな胸をワクワクさせながら見物に出かけるのが毎日の仕事になった。うまく紳士に出っくわして、目礼されたり、短い挨拶をされたりすると、あわてふためいて、すべったり転んだりして大騒ぎになる。そして、夜になると、『ロッキーに春がくれば』を合唱しては、涙ぐむのだった。
ところで、今日、そのうっとりするような紳士をこの山小屋《ヒュッテ》のお茶に招待するところまでこぎつけたというのである。
チビの鮎子さんが、皆に押し出されて、紳士の前まではって行った。ピョコンとひとつお辞儀をすると、
「あたしたちのところへ、明日《あす》、お茶に来て、ちょうだい」
と、いった。
チャーミングさんは、なんともいいようのない美しい微笑をうかべながら、たいへんに慇懃《いんぎん》な口調で、お招きにあずかって有難い、といった。
鮎子さんは、紳士があまり丁寧なので、面くらってひっくりかえりかけ、あぶなく紳士に抱きつくところだった……。
夕方から夜にかけて、六人のお嬢さんたちは、みな、とりとめなくなって、ただもうソワソワと立ったり坐ったりばかりしていた。
その夜半《よなか》、キャラコさんは、梓さんがしきりに寝がえりをうつので、いくども眼をさました。
次の朝、曙《あけぼの》の光がまだずっと向うの山脈《やまなみ》を薄桃色に染めているころ、みな、一せいに起き出してドタバタ騒ぎはじめた。
テルモスや、古《ふる》カードや、ワックスの鑵や、こわれた八|角《かく》手風琴《てふうきん》や、兎耳《うさぎみみ》や、ちぎれたノルウェー・バンドの切れっぱしは、みなひとまとめにして戸棚のなかに押し込まれ、広間は見ちがえるほどきれいになった。
画のじょうずなトクさんは雪の下から掘り出したはりえにしだ[#「はりえにしだ」に傍点]の枝で奇妙な生花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《い》けた。
詩人の芳衛さんは、宝石細工人のような熱心さで、林檎《りんご》に息をふっかけては服の袖《そで》で磨いた。
チビの鮎子さんは、ろくな服を持って来なかったとひっきりなしに愚痴をこぼし、ピロちゃんは靴が小さくなったといって地団太《じだんだ》を踏んだ。
おしゃまのユキ坊やは、毛皮のついたカーディガンのツウ・ピースを着て、しゃなりくなりと広間へ入って来たが、生花の枝に袖をひっかけて花瓶を倒し、腰から下をびしょ濡れにしてべそをかいた。
梓さんは長い間衣裳戸棚の中をかき廻していたが、結局いつもの制服のようなプロシアン・カラーの服を着て来た。ちゃんとアイロンがあててあった。
やがて昼食のテーブルについたが、誰も喰べものが喉へ通らないふうだった。
トクさんは塩辛くて喰べられないというし、ピロちゃんは鮎子さんがいつまでも食卓《テーブル》にへばりついているといって拳固《げんこ》で背中をこづいた。キャラコさんのほかは、みな、ちょっとフォークをつけただけでさげさせて、料理番のすぎ婆やを仰天させた。
ちょうど三時五分になると、扉《ドア》の打金《ノッカア》の響きがきこえた。
ユキ坊やとピロちゃんは、ゾッとしたように眼を見合わせ、芳衛さんとトクさんは気が遠くなるような眼つきをした。キャラコさんが立って行って扉《ドア》をあけると、そこに、四十二三の、スラリと背の高い中年の紳士が、慇懃なようすで立っていた。
ブリチェーズのようになった仕立てのいいトイルのパンツをはき、緑がかった水色の杉織《ヘリングポーン》の長胴着《ウエスト》の上にしゃれたカバード・コートを着ていた。むぞうさなようで、どこといって隙のないスマートな身ごしらえであった。
紳士が広間へ入って来ると、鮎子さんが煖炉《だんろ》の前の椅子へ案内して森川氏の葉巻をすすめた。紳士は比類のない丁寧な口調でそれを断わると、白い長い指でキリアジを取り出してゆっくりと火をつけた。
蒼白い広い額《ひたい》のしたに煙ったような黒い眼があって、熱情と沈鬱をあらわしている。頬は丁寧に剃られて子供の頬のようにつやつやと光っていた。なんともいえない気品のある鼻と、かたちのいい唇をもっている。顔にはどこか疲れたような色があるが、それは、このすぐれた面《おも》ざしに一層の深味をあたえ、たとえようのないメランコリックな美しさをつくりあげていた。
しかし、このやんちゃなお嬢さんたちが、いつまでもそうはにかんでばかりいるわけはなかった。チビの鮎子さんがまず口を切ると、あとは乱脈になって、みな、むやみやたらにしゃべりだした。
ところで、梓さんだけは、たいへんにすましている。どうやら、この山小屋《ヒュッテ》の主人としての品格をたもとうとしているらしかった。
自己紹介をかねたおしゃべりが一段落つくと、話題はスキーのことに移っていった。
紳士は登山家でもあるらしく、グラン・コルニエやエクランに登ったというような話をした。
みなアルプス登山の話を根掘り葉掘りききだした。話の興味よりも、すこしでも長くひきとめておこうという計略らしかった。
「……シャモニイという町のまん中をアルブという川が流れていまして、その上に小さな橋が……」
「あら、素敵ですこと、その橋は、いったい、どんな色に塗ってありますの?」
だいたい、こんなふうだった。
感激家の芳衛さんは、座興までにといって、ヴァイオリンを弾《ひ》いた。熱心のあまり、すこしキイキイいわせすぎたようだった。演奏が終ると、紳士は音楽の一節をほどよくほめ、来た時と同じように、静かに帰って行った。
三
毎日、天気がつづき、窓をあけると、一月とは思えぬようなおだやかな微風が、かすかな春の息吹きを含んでそよそよと吹きこんで来る。
詩人の芳衛さんが、深い息をしながら、
「木蓮《もくれん》と薔薇《ばら》と沈丁花《ちんちょうげ》の匂いがする」
と、感傷的な声でつぶやいた。ほんとに、このまま春になってしまうかと思われるような暖かさだった。
みな、あんなにのぼせあがったくせに、いちどお茶に招《よ》ぶことに成功すると、それからはチャーミングさんのことであまり大騒ぎをしなくなった。わざわざこちらから出かけて行かなくとも、チャーミングさんのほうから時々遊びに来るようになったし、それに、そろそろ学期のはじまりが近づいて来たので、このごろは級《クラス》や学校の話ばかり出るようになった。
みな、すこしずつ懐郷病《ホーム・シック》の気味で、スキーもあまりしなくなり、雪やけした頬や鼻にクリームをすりこんだり、両親や友達にせっせと絵葉書を書いたりするようになった。
どの絵葉書も、もうじきお目にかかれてうれしいわ、と結んであった。
誰もかれも急に不精になって戸外《そと》へ出たがらないので、梓さんが郵便を出す役目をひきうけ、みなの絵葉書や手紙を集めては、一日一回、ホテルまで持って行った。
こんな日が三日ほどつづいたのち、正午《ひる》すぎに郵便を出しに行った梓さんが三時ごろになっても帰って来ないので、キャラコさんはそろそろ心配になって来た。
画のじょうずなトクさんはスケッチ・ブックの整理をしているし、詩人の芳衛さんはノートをかかえながらむずかしい顔をして創作[#「創作」に傍点]にふけっているし、おしゃまのユキ坊やとチビの鮎子さんは、ひとつの鏡をひっぱり合って一しょうけんめいに鼻の頭をなでている。
陽気なピロちゃんだけは気になるとみえて、
「梓《あっ》ちゃんのやつ、どうしたんだろうなア」
と、いいながら、窓のほうへ行ったり扉《ドア》の方へ行ったり、ガタガタとうるさく歩き廻った。
トクさんは顔をしかめて、
「放ってお置きなさいよ。きっとまた興にのって、どこかですべっているのよ。お名残《なご》りに笠山《かさやま》まで行こうかなあ、なんていってたから」
ピロちゃんは、
「ふうん、そうなのか、ふうん」
と、納得しないような顔つきをしていたが、急にやかましくハーモニカを吹きだした。
トクさんは、とうとう怒って、
「ピロちゃん、うるさいわよ。勉強してるんじゃないの」
と、きめつけると、ピロちゃんは、
「うへえ、大した勉強だな。みんな鼻の頭ばかりなでているじゃないか」
と、やりかえしておいて、ハーモニカを吹きながら二階へあがって行ってしまった。
キャラコさんは、揺椅子《ロッキング・チェア》にかけて、愉快そうに笑いながら編物をしていたが、心の中はなかなかそれどころではなかった。すこし、気になることがあるのである。
ふだんは、すこしにぎやかすぎるくらいで、独りでいることの嫌いな梓さんが、チャーミングさんがお茶に来た次の日あたりから急にものをいわなくなり、広間の隅や寝室の窓のそばでぼんやりと坐っていることが多くなった。熱のある子供のようなうっとりとした眼つきをし、なにかたずねると、とんちんかんな返事ばかりした。
寝床へ入ってから、あまり静かなので、眠っているのかと思って薄眼《うすめ》をあけてうかがうと、梓さんは、闇のなかで大きな眼をあけて、瞬きもせずに天井をみつめていた。寝息《ねいき》を乱すまいとして、ことさらに規則正しい息づかいをしていることがよくわかった。手が燃えるように熱くなったと思うと、急に氷のように冷たくなったりした。いつ眼をさまして見ても、梓さんの眼はあいていた。
次の朝、いつものように、
「昨夜《ゆうべ》は、よく眠れて?」
と、たずねると、梓さんは、
「ええ、よく眠れたわ」
と、大儀そうにこたえた。
顔つきが急におとなっぽくなり、それに、血のけというものがなかった。どんな小さなことでも胸のうちにしまって置けず、すぐなんでも話してしまう、気さくな梓さんのこの変りようがキャラコさんを驚かした。
キャラコさんは、梓さんがいま何を考えているかわかるような気がしたが、軽率なあて推量をしてはならないと思って、それ以上は深くかんがえないことにした。もし、自分が推察していることが本当だったら、その時、自分がとるべき態度だけははっきりきめておか
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