いすすり泣きの声をあげる。
「あてにならないわ。そんなこと誰れが保証するの。……ひょっとして、梓さん、死んで帰ってくるんじゃないかしら」
誰も返事をしなかった。
みなの心に、不安な思いが、またドっと雪崩《なだれ》のように落ちかかって来た。
(死んで帰ってくるかも知れない……)
……キャラコさんが、シオシオと山小屋《ヒュッテ》の扉口へ姿をあらわす、そして、
「とうとう、間に合わなかったわ」
と、低い声で、みなに告げる。
キャラコさんのうしろから、木戸池小屋の小屋番にかつがれた梓さんが入ってくる。熱情家で、誰れよりも聡明だった梓さんが、死体になって広間の長椅子の上に横たえられる。……棒のようにカチカチになった髪に氷がキラキラとからみつき、胸の上に手を組み合わせて、ひっそりと眼を閉じている。死んでしまった梓さんの白いさびしそうな顔……。
芳衛さんが、揺椅子の中で、急に身体を起こす。椅子が、ひどい音をたててキュッと鳴った。鮎子さんとユキ坊やが、おびえたように、ギョッとこちらへ振り返った。
芳衛さんが、嗄《かす》れたような声で、いった。
「どうしよう。……ともかく、たいへんなことになったわね。……悲惨だわ、あたしたちにしたって……」
鮎子さんが、眼をあげてチラと芳衛さんの顔を眺め、また、すぐ眼を伏せてしまった。
芳衛さんがどんな意味のことをいっているのか、すぐ、みなの心に通じた。これは、梓さんだけのことではない。ここにいる同じ年ごろの五人の人生にもたいへんな関係のある問題だった。
「梓さんのやつ、助かってくれるかしら。さもないと、やり切れないことになるわ」
トクさんが、寝台の上で身体をゆすった。
「ほんとうに、助かってもらいたいわ」
芳衛さんが、とつぜん甲高い声をだす。
「要するに[#「要するに」に傍点]、あたしたちは観念だけで生きているんだということがよくわかったよ。……ともかく、たいへんな教訓だったわ、あたしたちにとっては!」
トクさんが、悲しそうな眼つきで、うなずいた。
「……あんたのいう通りだわ。……それにしても、すこし、情けなすぎるわね。あたしたち、恋愛だけでしか生活を豊富にすることを知らないのだとすれば!」
芳衛さんは、頭を振って額《ひたい》へふりかかる髪の毛をはらいながら、
「そうよ、そのほかに、いったい、何があるというの?……生活の目標もなければ、生活する力もない。……なんでも知っている。そのくせ、具体的なことは何ひとつ知らない。正直なところをぶちまけると、本の読み方さえろくに知っていないんだわ。これではあまり希望がなさすぎるわね。だから、こんなことになるんだわ。……もちろん、梓さんの罪ではない。……要するに[#「要するに」に傍点]あまりあたしたちをほったらかしすぎるからいけないんだ。あたしたちの時代《ジェネレエション》にてんで眼を向けようともしないのがいけないんだわ。……学校を出さえすれば、あとは嫁にやってしまうだけなんだから、せいぜい勝手なことをさせて置くさ。……こんなのを、自由というのかしら。……むしろ、惨酷《みじめ》といったほうがいいわ。……いい加減に扱われているんだよ。たしかに、見捨てられているんだ。……あたしたち、まだ独り歩きなどできないんだから、こんな意味で、個性なんか尊重してもらいたかないわ」
トクさんは、感情の迫った声で、いった。
「その通りだわ。……古い生活の形式が死んで、まだ新しい生活の形式が生まれて来ない。あたしたちは、いま、そんなちぐはぐな時代にいるのね。とりわけ、あたしたちのような、間もなく世間へ送り出されようとしている若い娘がいちばん苦しんでいるんだわ。……どうしていいかわからない。どこを目あてに生きてゆけばいいのか見当がつかない。だから、恋愛なんかにばかり追従するようになるんだわ。情けないわね」
トクさんが、とつぜん寝台からすべりおりると芳衛さんの方へ歩いて行って、二人で手をとり合って劇《はげ》しく泣き出した。
「梓さん、気の毒だ」
「あたしたちもよ!」
鮎子さんとユキ坊やは、無言でうつ向いていた。
陽気なピロちゃんが雑誌を捨てて立ちあがると、二人の肩の上にそっと手を置いた。
「泣くのよしなさいね。……梓さんは死にやしないよ。……すくなくとも、死にになんか行ったんじゃないと思うわ」
ユキ坊やが、眼を輝かせながら、大きな声で、叫んだ。
「ボクも、そう思う!」
「梓さんは、死にになんか行ったんじゃない。すくなくとも、そう考えるべきだわ。ボクたちは、そんな弱虫じゃないんだ」
芳衛さんが、泣きやんだ。
「そうね。……せめて、そんなふうに希望を持たなければ、とても、やり切れないわ」
ピロちゃんが、やっつけるような口調でいう。
「希望じゃない、真実さ。……あたしたちは、お互いの勇気を、もっと信用し合わなくてはいけないな」
「だから、いい教訓だといったわ」
「ほらね、ちゃんと知ってるじゃないか。……泣くことも、恐がることもいらないんだ。だまって信じてればいいんだよ、梓さんの理性を」
ユキ坊が、とつぜん横合いからひったくった。
「あたしたち、いくども誓い合ったわね。いろんな場合に理性でやってのけよう、って。……自分たちの時代のためにも、もっと、しっかりする義務があるって。……梓さんだって、たぶん、それを忘れちゃいないよ。決して、馬鹿げたことはしない。あたし信じてる!」
ピロちゃんが、うなずいた。
「そうなんだ。……キャラコさんを見ろよ。ちっとも、うろたえてもいなければ、あわててもいなかったぜ。キャラコさんは梓さんの理性をちゃんと信用しているんだ。……間もなく、きっと連れて帰ってくる」
鮎子さんは、うれしそうに手を拍《う》ち合わしながら、
「そうよ、そうよ。きっと、連れて帰ってくるわ。すくなくとも、そう考えるほうが、友情というもんだわ」
トクさんが、ようやく泣きやむ。
「そうね、たしかにそうだったわ。……でもね、……じゃ、いったい、何しにわざわざ池へなど行ったのかしら」
ユキ坊やが、はぐらかすように、いった。
「こんなことぐらいじゃ死なないって、よく自分自身にいいきかせるためにさ」
ピロちゃんが、たしなめる。
「そんなふうに、ふざけるのはよしなさい。……何しに行ったか、って? トクさん、それは、あなただって知ってるはずだわ。……つまり、ひと泣き、泣きに行ったのさ。それくらいのことはゆるさるべきだわ。あたしたちは、まだ若いんだから……」
みな、すこしずつ元気になった。鮎子さんが、また、だしぬけに大きな声で、いった。
「……ねえ、梓さんが死にに行っただなんてまっさきに騒ぎ出したのは、いったい誰だったの?」
ピロちゃんが、こたえた。
「森川夫人さ」
「ああ、そうだったわ。それで、みな、釣り込まれてしまったのね、いやだわ」
芳衛さんが、人がちがったような快活な声で、いった。
「そんなにも、あたしたちを知らなすぎるんだわ。すこし、説明してあげる必要がありそうね」
トクさんが、すぐ受けて、
「そうね、慰安のためにもね。……ともかく、おばさまをあんなふうにひとりで放って置いてはいけないわ。みんなで行って、何かお話でもしてあげましょうよ」
ピロちゃんが、元気よく立ちあがった。
「賛成だ。ボク、うまい話をしてやる」
五人が広間へ降りて行ってみると、森川夫人が、煖炉のそばの安楽椅子《ソファ》に沈み込んで、ひとりで泣いていた。
五人は、森川夫人を取り巻いて床の上へ坐った。
ピロちゃんが、のんきな声で、いった。
「おばさま、そんなにお泣きにならなくとも大丈夫ですよ。梓さんは、もうじき帰って来ます。なにしろ、キャラコさんがちゃんと引き受けたんだから。……おばさま、あなた、ちっともご存知ないんですよ。あたしたち、どんなに元気があるか!……子供のようにしか見えないのは、あなたのお勝手だとしてもね!」
七
踏みつける雪が、スキーの下でキュッキュッと鳴る。
雪の原のはるか向うに、栂《とが》の樹《き》に吹きつけられた雪が団子《だんご》のようにかたまりついて、大きな雪人形のような奇怪なようすで立っている、降ったばかりの雪の上に、シュプールが、一本、まっすぐにその方へつづいている。梓さんがすべって行ったあとだ。
それにしても、なんという広大な雪の世界だろう。涯《はて》しもない茫漠《ぼうばく》たる雪原がただ一面に栄光色に輝いて、そのすえは同じような色の空のなかへ溶けこんでいる。雪の大海原。しんとした蒼い光暈《ハロオ》の中を、たった一人で進んで行くと、このまま月の世界へでも入って行ってしまいそうなふしぎな幻想に襲われる。
キャラコさんは、とりとめのない、蒼白い雪原の中で、さかんな雪煙りをあげながら緩《かん》傾斜のトレールをしゃにむにのぼって行った。
キャラコさんは、梓さんがこのくらいのことで自殺するはずがないと固く信じていた。しかしまだ人生の複雑な起伏をあまり多く経験していないので、こんな場合、感情がどんな昂揚《こうよう》のしかたをするものか、はっきりとわかりかねるところがあった。
梓さんは、房枝叔母さまを捨てた無情な愛人は、実は、チャーミングさんで、しかも、自分がそのひとの子供だということまで聞いてしまったのにちがいない。梓さんばかりではなく、この年ごろの少女にとっては、これは、たしかに致命的な打撃だったに相違ない。
キャラコさんは、梓さんのしっかりした気質に充分期待をかけているのだったが、打撃のひどさを考えると、その自信もゆらぎかける。もしや、と思うと、気がうわずって来て、つい焦《あせ》り気味になってしまう。
(ともかく、すこしでも早く行きつかなくては!)
無事なうちにつかまえることができたら、娘への愛のために、錯乱して嘘までいう母の心というものをわからせて見せる自信があった。それさえ説明すれば、自分の不幸な恋愛が、頭の弱い母をどんなに悩乱させたかはっきりと了解するにちがいない。
今、さし迫った問題は、神秘的なようすをしたあの青い池の水が梓さんを呑み込む前に、うまくそこへ行きつけるかどうかということだった。さすがに、気が気でなかった。
天狗岩の下まで行きつくと、近道をするためにスキーもはいらないような藪《やぶ》の深い急坂勾配《きゅうはんこうばい》[#ルビの「きゅうはんこうばい」は底本では「きうはんこうばい」]をまっすぐに登りはじめた。見透しもつかないほどの密林で、それに、セカセカと急ぐので足の調子がうまく行かなかった。海豹皮《シール》がきかなくなってズルズルとすべり落ち、そのたびに雪の積った枝に足をとられてみごとにひっくり返った。藪がひどいのとルックザックを背負っているのとで、起きあがるまでの苦労はなみたいていのことではなかった。
汗が顎《あご》を伝わって胸のほうへ流れ込み、咽喉《のど》がカラカラに乾いて呼吸《いき》をするたびにヒリヒリと痛んだ。このままここでへたばってしまうかと思われるようにひどい苦しさに耐えながら、笹や木の枝につかまって一歩一歩登って行った。
見あげるような大きな岩塊のすそを廻って、ようやくその上へはいあがると、すぐ眼の下に木戸池が西洋の手鏡のようなかたちをして、ひっそりと銀色に光っていた。
池を取り巻いている落葉松《からまつ》の林の中に、黒い人影がひとつ見える。
梓さんだった。
梓さんは、雪の上に坐ってぼんやりと池を眺めていた。
キャラコさんは、思わず心の中で叫んだ。
(間に合ってよかった!)
キャラコさんは、大きく呼吸《いき》を吸い込むと、池のほうへ逆落《さかおと》しになっている急傾斜をすべり降りはじめた。樹《き》の空《あ》いているところを見透かしては、十尺ぐらいの空間を直滑降で飛ばし、樹《き》の幹《みき》のすぐ前で雪煙りをあげて急停止する。キャラコさんは、スキーに大《たい》して自信がないので、それこそほんとうに、命がけの仕事だった。
やっとの思いで密林の急斜面をすべり降りると、池の縁《ふち
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