。
その後《ご》、チャーミングさんの絵がリュクサンブウルの博物館《ミュウゼ》にはいったという評判や、相変らず独身で南|仏蘭西《フランス》を遊び廻っているという噂を耳にしたが、この七八年、ふっつりと風聞《ふうぶん》をきかなくなった。
そのチャーミングさんが、こんどは梓の愛人として、十八年もたったいま、とつぜん森川夫人の前に現われて来た。
チャーミングさんは、すらりとした長身をゆったりと椅子の中にのばし、沈鬱《メランコリック》な眼ざしで静かに煖炉《いろり》の火を見つめている。長らくの放蕩《ほうとう》で、どこか疲れたようなようすをしているが、美しい面ざしはむかしとすこしも変わらない。
森川夫人は、思わず絶望しうめき声をあげた。
じっさい、女の敵の中で、チャーミングさん以上に恐ろしい相手はない。どの女も、うち勝つことができなくて、みな、この男に滅ぼされてしまった。とても自分などが太刀打《たちう》ちできる相手ではないと思うと、心が萎《な》えたようになって、何をいうのも覚束《おぼつか》ない気がするのだった。
しかし、この男のために、妹までか、だいじなたったひとりの娘の幸福までがむざむざとふみにじられるのかと思うと、心の底から怒りがわいて来て、どんなことがあっても娘を奪いかえさなくてはならないと奮い立った。もう必死だった。子供の愛情のまえには、なりもふりもかまわなくなる、母のあの崇高な錯乱だった。
端正《たんせい》に膝《ひざ》に手を置いてしずかに微笑しながら、森川夫人はこころのなかで泣いていた。悲しみとも憤《いきどお》りともつかぬ痛烈な涙が、胸の裏側をしとどに流れおちた。
「……あなたは、いつもお美しいわね。あれから、もう何年になりますかしら。ちっともお変わりにならないわ」
チャーミングさんの頬に、瞬間、血の色がさし、悩ましそうな眼ざしで、森川夫人を見つめながら、
「十八年! ……あのひとのことを、たった一日も忘れたことのない十八年……」
感情を押ししずめるように、すこし、息をとめてから、
「……私はさんざんに放蕩をしましたが、いつも、私の心の奥に住んでた、たったひとつの俤《おもかげ》は、いちばんはじめに、私の胸に訪れた、|伊太利風の夏帽子《シャポオ・ド・パイユ・デ・イタリイ》をかぶった、シャヴァンヌの絵のようなあのひとの俤だったのです」
森川夫人は、思わず怒りに胸をふるわせて、叫ぶような声で、いった。
「房枝は、あなたに捨てられた女よ」
チャーミングさんは、静かに手でおさえながら、
「……ツルゲーネフの小説にありますね。……広い世の中へ出て行ったら、こんなちっぽけな田舎娘とくらべものにならぬような美しいやさしい女が大勢いると。……その男は、すがりつくようにする娘をふり捨てて都会へ出て行った。……しかし、白髪《しらが》になるまで、その田舎娘ほどやさしい、そして真実な女にめぐり逢うことができなかった。……この、後悔ほどつらく悲しいものはありません。これは、放蕩児が受けなければならぬ劫罪《ごうざい》なのです。……私は、放蕩に疲れきったあとで、ようやく、真実な愛のねうちをさとったのでした。……私はむかしのひとの俤を探して歩きました。……それから、もう何年になるでしょう。……そして、この期《ご》になって、思いがけなく落葉松にかこまれた池のそばでその俤に出逢ったのです。……むかしのあのひとのように清らかで、むかしのあのひとに生き写しでした。……夢でなければ、それこそ不思議だと、その時、私はそう思いました」
なんという不思議な男だろう。ものうげな、しみじみとしたその声をきいていると、ひき込まれて思わず夢心地になる。
森川夫人は、いっしんに気をとりなおして、
「さあ、もうずいぶんしゃべりましたね。そのくらいにして置いてください。……あなたは、梓があたしの娘だとわかったら、あの娘からだまって手をひいてくださるでしょうね。……あの娘の幸福を思ったら、どうぞ、黙ってここから出て行って、二度と梓の前に現われないでください」
チャーミングさんは、悲しそうに首を振って、
「でも、私に別れたら、梓さんはきっと死んでしまうでしょう」
森川夫人の頭のすみを、あわれに取り乱した梓さんの姿がチラとよぎった。やるせない涙がクッと胸《むな》さきにつっかけて来た。梓は、ほんとうに死ぬかも知れない。妹もあの時そうだった。いよいよ最後の決心をしなければならない時が来たと思った。
(たとえ、どんなひどい嘘をついても!)
森川夫人は、微笑しながら、
「あなたは、ほんとうにあの娘を愛してらっしゃいますか」
「あなたは、何んということをおたずねになるのです」
「そんなら、……もし、そうなら、あなたは、あの娘を死なせるようなことはなさらないでしょうね」
「いのちが
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