なんでしょう! ……夫人《おく》さん、あなたは愛情というものを、たいへん低く見ていらっしゃる」
 森川夫人は、しずかに、いった。
「愛情というものを信ずればこそ、そう申しあげるのです。……朝治《あさじ》さん、ほんとうのことをうち明けますが、じつは、梓は房枝の娘なのです。これは、どういう意味か、あなたにはよくおわかりになるでしょう。あたしの申しあげることは、これだけですわ」
 それから、十五分ほどすると、チャーミングさんは、影のようになって、よろよろと山小屋《ヒュッテ》を出て行った。

 夕食がはじまったが、梓さんは広間へ降りてこない。
 チャーミングさんが山小屋《ヒュッテ》へやって来ると、キャラコさんは、みなをひとまとめにして乾燥室へ押し込んで『おはなし』をはじめた。梓さんは、すっかり落ち着いてニコニコしながらきいていたが、三十分ほど前、ちょっと、といって二階のほうへあがっていったきり、乾燥室へ戻ってこなかった。みなは寝室へ長くなりに行ったのだとばかし思っていたが、部屋の中は、からっぽだった。
 玄関へ行ってみると、梓さんのスキーがなかった。森川夫人が思い切った告白をしたすぐあとで、玄関のほうで、何かかすかな物音がした。梓さんはたぶん、そのとき出て行ったのだろう。
 森川夫人は蒼《あお》くなって泣き出した。もの狂わしく、キャラコさんを広間へ呼び入れると、チャーミングさんに手をひかせるために、梓さんがチャーミングさんの娘だなどと、ありもしない事を言い切った事情を手短かに物語って、
「キャラコさん、梓はあのお話をきいて悲しがって死にに行ったんです。……どうぞ、梓を助けてね、助けてちょうだい」
 キャラコさんが玄関から駆け出して、スロープを見おろすと、さっき降った雪の上に、山のうらの白樺の平地のほうにつづいている真新しいシュプールを見つけた。梓さんは木戸池へ行ったのだ。森川夫人が、泣きながらいった。
「玄関に物音がしたときに梓が出て行ったのだとすれば、今ごろはもうだいぶ行っているわけね。今から行って、うまく追いつけるでしょうか」
 トレールを迂回《うかい》せずに、尾根を伝っていきなり天狗岩の上へ出て、藪《やぶ》の急斜面を池のほうへ滑降しさえすれば、どうにか追いつける自信があった。
「ねえ、追いつけるでしょうか」
 キャラコさんは、ちょっと考えてから、しっかりした声でこたえた。
「やってみますわ」
「丸池ヒュッテの男たちに一緒に行ってもらわなくてもいいかしら」
「あたしひとりのほうがいいと思いますわ。あまり、おおげさにしないほうが」
 夫人は、不安そうに、
「それもそうね」
 と、いって、両手の中でギュッとキャラコさんの手をにぎりしめると、
「キャラコさん、ほんとうにお願いしてよ。あなただけが頼りなのですから」
「ええ」
「どうぞ、梓を助けてやって、ちょうだい」
 キャラコさんが、強くうなずく。
「どんなことがあっても!」
 おろおろと取り乱す夫人を励ますように、その腕へ手をかけてゆすりながら、元気な声で、いった。
「だいじょうぶですわ、おばさま、そんなにご心配なさらなくとも。……きっと無事に連れて帰って来ますわ。お約束してよ」
 キャラコさんは、たいへん落ち着いていた。すくなくとも、表面はそんなふうに見えた。あわてふためく芳衛さんやトクさんを差図して魔法瓶《テルモス》に熱い紅茶を詰めさせ、厚い毛の下着とブランデーをルックザックにいれて背負うと、キュッと口を結んで玄関からすべりだした。
 雪の上に月が照り、空も、斜面も、林も、影も、なにもかも、みな真っ青で、まるで夢幻《むげん》の世界のようだった。

     六
 五人は、嵐に追いまくられた小鳥のようなようすで、二階の寝室でひと固まりになって坐っていた。芳衛さんは揺椅子《ゆりいす》のなかへ沈みこみ、トクさんは寝室のはしへ腰をかけ、鮎子さんとおしゃまのユキ坊やは、しんとした夜の雪山《ゆきやま》を眺めながらためいきをついていた。陽気なピロちゃんだけは、例によって、床の上へ胡坐《あぐら》をかいてのん気な顔で西洋雑誌の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵《さしえ》を眺めている。
(梓さんが、自殺するために池のほうへ急いでいる……)
 あまり唐突すぎて、どう考えていいのか、理性でも感情でもうまく処理することができなかった。
 鮎子さんが、長いためいきをつく。窓ガラスに額《ひたい》をあてたまま、虫の鳴くような声でつぶやいた。
「キャラコさん、うまくやってくれるといいな。……もう、どのへんまで行ったかしら……」
 陽気なピロちゃんが、ゆっくりと頁《ページ》を繰りながら、大きな声でいった。
「心配しなくとも大丈夫だよ。きっと帰ってくる」
 ユキ坊やが、ふッ、と短
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