《ヒュッテ》のお茶に招待するところまでこぎつけたというのである。
チビの鮎子さんが、皆に押し出されて、紳士の前まではって行った。ピョコンとひとつお辞儀をすると、
「あたしたちのところへ、明日《あす》、お茶に来て、ちょうだい」
と、いった。
チャーミングさんは、なんともいいようのない美しい微笑をうかべながら、たいへんに慇懃《いんぎん》な口調で、お招きにあずかって有難い、といった。
鮎子さんは、紳士があまり丁寧なので、面くらってひっくりかえりかけ、あぶなく紳士に抱きつくところだった……。
夕方から夜にかけて、六人のお嬢さんたちは、みな、とりとめなくなって、ただもうソワソワと立ったり坐ったりばかりしていた。
その夜半《よなか》、キャラコさんは、梓さんがしきりに寝がえりをうつので、いくども眼をさました。
次の朝、曙《あけぼの》の光がまだずっと向うの山脈《やまなみ》を薄桃色に染めているころ、みな、一せいに起き出してドタバタ騒ぎはじめた。
テルモスや、古《ふる》カードや、ワックスの鑵や、こわれた八|角《かく》手風琴《てふうきん》や、兎耳《うさぎみみ》や、ちぎれたノルウェー・バンドの切れっぱしは、みなひとまとめにして戸棚のなかに押し込まれ、広間は見ちがえるほどきれいになった。
画のじょうずなトクさんは雪の下から掘り出したはりえにしだ[#「はりえにしだ」に傍点]の枝で奇妙な生花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《い》けた。
詩人の芳衛さんは、宝石細工人のような熱心さで、林檎《りんご》に息をふっかけては服の袖《そで》で磨いた。
チビの鮎子さんは、ろくな服を持って来なかったとひっきりなしに愚痴をこぼし、ピロちゃんは靴が小さくなったといって地団太《じだんだ》を踏んだ。
おしゃまのユキ坊やは、毛皮のついたカーディガンのツウ・ピースを着て、しゃなりくなりと広間へ入って来たが、生花の枝に袖をひっかけて花瓶を倒し、腰から下をびしょ濡れにしてべそをかいた。
梓さんは長い間衣裳戸棚の中をかき廻していたが、結局いつもの制服のようなプロシアン・カラーの服を着て来た。ちゃんとアイロンがあててあった。
やがて昼食のテーブルについたが、誰も喰べものが喉へ通らないふうだった。
トクさんは塩辛くて喰べられないというし、ピロちゃんは鮎子さんがいつまでも食卓《テーブル》にへばりついているといって拳固《げんこ》で背中をこづいた。キャラコさんのほかは、みな、ちょっとフォークをつけただけでさげさせて、料理番のすぎ婆やを仰天させた。
ちょうど三時五分になると、扉《ドア》の打金《ノッカア》の響きがきこえた。
ユキ坊やとピロちゃんは、ゾッとしたように眼を見合わせ、芳衛さんとトクさんは気が遠くなるような眼つきをした。キャラコさんが立って行って扉《ドア》をあけると、そこに、四十二三の、スラリと背の高い中年の紳士が、慇懃なようすで立っていた。
ブリチェーズのようになった仕立てのいいトイルのパンツをはき、緑がかった水色の杉織《ヘリングポーン》の長胴着《ウエスト》の上にしゃれたカバード・コートを着ていた。むぞうさなようで、どこといって隙のないスマートな身ごしらえであった。
紳士が広間へ入って来ると、鮎子さんが煖炉《だんろ》の前の椅子へ案内して森川氏の葉巻をすすめた。紳士は比類のない丁寧な口調でそれを断わると、白い長い指でキリアジを取り出してゆっくりと火をつけた。
蒼白い広い額《ひたい》のしたに煙ったような黒い眼があって、熱情と沈鬱をあらわしている。頬は丁寧に剃られて子供の頬のようにつやつやと光っていた。なんともいえない気品のある鼻と、かたちのいい唇をもっている。顔にはどこか疲れたような色があるが、それは、このすぐれた面《おも》ざしに一層の深味をあたえ、たとえようのないメランコリックな美しさをつくりあげていた。
しかし、このやんちゃなお嬢さんたちが、いつまでもそうはにかんでばかりいるわけはなかった。チビの鮎子さんがまず口を切ると、あとは乱脈になって、みな、むやみやたらにしゃべりだした。
ところで、梓さんだけは、たいへんにすましている。どうやら、この山小屋《ヒュッテ》の主人としての品格をたもとうとしているらしかった。
自己紹介をかねたおしゃべりが一段落つくと、話題はスキーのことに移っていった。
紳士は登山家でもあるらしく、グラン・コルニエやエクランに登ったというような話をした。
みなアルプス登山の話を根掘り葉掘りききだした。話の興味よりも、すこしでも長くひきとめておこうという計略らしかった。
「……シャモニイという町のまん中をアルブという川が流れていまして、その上に小さな橋が……」
「あら、素敵ですこと、その橋は、
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