いったい、どんな色に塗ってありますの?」
 だいたい、こんなふうだった。
 感激家の芳衛さんは、座興までにといって、ヴァイオリンを弾《ひ》いた。熱心のあまり、すこしキイキイいわせすぎたようだった。演奏が終ると、紳士は音楽の一節をほどよくほめ、来た時と同じように、静かに帰って行った。

     三
 毎日、天気がつづき、窓をあけると、一月とは思えぬようなおだやかな微風が、かすかな春の息吹きを含んでそよそよと吹きこんで来る。
 詩人の芳衛さんが、深い息をしながら、
「木蓮《もくれん》と薔薇《ばら》と沈丁花《ちんちょうげ》の匂いがする」
 と、感傷的な声でつぶやいた。ほんとに、このまま春になってしまうかと思われるような暖かさだった。
 みな、あんなにのぼせあがったくせに、いちどお茶に招《よ》ぶことに成功すると、それからはチャーミングさんのことであまり大騒ぎをしなくなった。わざわざこちらから出かけて行かなくとも、チャーミングさんのほうから時々遊びに来るようになったし、それに、そろそろ学期のはじまりが近づいて来たので、このごろは級《クラス》や学校の話ばかり出るようになった。
 みな、すこしずつ懐郷病《ホーム・シック》の気味で、スキーもあまりしなくなり、雪やけした頬や鼻にクリームをすりこんだり、両親や友達にせっせと絵葉書を書いたりするようになった。
 どの絵葉書も、もうじきお目にかかれてうれしいわ、と結んであった。
 誰もかれも急に不精になって戸外《そと》へ出たがらないので、梓さんが郵便を出す役目をひきうけ、みなの絵葉書や手紙を集めては、一日一回、ホテルまで持って行った。
 こんな日が三日ほどつづいたのち、正午《ひる》すぎに郵便を出しに行った梓さんが三時ごろになっても帰って来ないので、キャラコさんはそろそろ心配になって来た。
 画のじょうずなトクさんはスケッチ・ブックの整理をしているし、詩人の芳衛さんはノートをかかえながらむずかしい顔をして創作[#「創作」に傍点]にふけっているし、おしゃまのユキ坊やとチビの鮎子さんは、ひとつの鏡をひっぱり合って一しょうけんめいに鼻の頭をなでている。
 陽気なピロちゃんだけは気になるとみえて、
「梓《あっ》ちゃんのやつ、どうしたんだろうなア」
 と、いいながら、窓のほうへ行ったり扉《ドア》の方へ行ったり、ガタガタとうるさく歩き廻った。
 トクさんは顔をしかめて、
「放ってお置きなさいよ。きっとまた興にのって、どこかですべっているのよ。お名残《なご》りに笠山《かさやま》まで行こうかなあ、なんていってたから」
 ピロちゃんは、
「ふうん、そうなのか、ふうん」
 と、納得しないような顔つきをしていたが、急にやかましくハーモニカを吹きだした。
 トクさんは、とうとう怒って、
「ピロちゃん、うるさいわよ。勉強してるんじゃないの」
 と、きめつけると、ピロちゃんは、
「うへえ、大した勉強だな。みんな鼻の頭ばかりなでているじゃないか」
 と、やりかえしておいて、ハーモニカを吹きながら二階へあがって行ってしまった。
 キャラコさんは、揺椅子《ロッキング・チェア》にかけて、愉快そうに笑いながら編物をしていたが、心の中はなかなかそれどころではなかった。すこし、気になることがあるのである。
 ふだんは、すこしにぎやかすぎるくらいで、独りでいることの嫌いな梓さんが、チャーミングさんがお茶に来た次の日あたりから急にものをいわなくなり、広間の隅や寝室の窓のそばでぼんやりと坐っていることが多くなった。熱のある子供のようなうっとりとした眼つきをし、なにかたずねると、とんちんかんな返事ばかりした。
 寝床へ入ってから、あまり静かなので、眠っているのかと思って薄眼《うすめ》をあけてうかがうと、梓さんは、闇のなかで大きな眼をあけて、瞬きもせずに天井をみつめていた。寝息《ねいき》を乱すまいとして、ことさらに規則正しい息づかいをしていることがよくわかった。手が燃えるように熱くなったと思うと、急に氷のように冷たくなったりした。いつ眼をさまして見ても、梓さんの眼はあいていた。
 次の朝、いつものように、
「昨夜《ゆうべ》は、よく眠れて?」
 と、たずねると、梓さんは、
「ええ、よく眠れたわ」
 と、大儀そうにこたえた。
 顔つきが急におとなっぽくなり、それに、血のけというものがなかった。どんな小さなことでも胸のうちにしまって置けず、すぐなんでも話してしまう、気さくな梓さんのこの変りようがキャラコさんを驚かした。
 キャラコさんは、梓さんがいま何を考えているかわかるような気がしたが、軽率なあて推量をしてはならないと思って、それ以上は深くかんがえないことにした。もし、自分が推察していることが本当だったら、その時、自分がとるべき態度だけははっきりきめておか
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