っと眺めていたが、ゆっくりと顔をあげると、異様に光る眼差しで槇子の眼を瞶《みつ》めながら、
「この掌は、いまあなたに非常な危険が迫っていることを物語っている。……この掌の中に表われていることを、みなさんの前ですっかり申してもよろしいか」
槇子は、サッと血の気をなくして、いそいで手をひっこめると、低い声で、
「いいえ、よく、わかってます」
と、いうと、逃げるように社交室を出ていった。
六
夜中から吹き出した強い冬の風は、夜があけてもおとろえずに、はげしい勢いで海の上を吼《ほ》え廻っていた。
午《ひる》過ぎになると、低く垂れさがった雨雲の間から薄陽《うすび》がもれはじめ、嵐はおいおいおさまったが海面《うなづら》はまだいち面に物凄く泡だち、寄せかえす怒濤は轟くような音をたてて岸を噛んでいた。
しかし、嵐は海のうえにばかり吹いたのではなくて、ホテルのこの『社交室』も、今朝《けさ》から一種の突風のようなものに襲《おそ》われていた。
沼間氏について、想像だにもしなかった意外な事実が、あるひとの口からもらされたのである。
沼間氏の経営する第九十九銀行は、最も信用ある個人銀行の一つに数えられ、沼間氏自身は百万長者のひとりだった。ところで、金融関係も預金者側もだれひとり知らぬうちに、沼間氏はいつの間にか一文なしになり、銀行の経済状態までが危殆に瀕していたのである。
沼間氏が、沼間銀行を通じて莫大な投資をしていた『択捉《エトロフ》漁業』は、昨年秋の漁区不許可問題にひっかかって破産し、沼間氏は資本の回収不能に陥って、銀行の金庫に、全財産を投げ出してもまだ数十万円の足が出るような大穴をあけてしまった。これは沼間氏一個人の大思惑《だいおもわく》で、他人の名儀でひそかに投資していたものだから、損害の補填《ほてん》がつかぬうちにこの事実が暴露すると、沼間氏は、当然、背任横領の罪に問われなければならない。
こういう内実を糊塗《こと》するために、贅沢なホテル住居をし、ことさら、無闇に金を浪費している沼間夫人とその二人の娘は、その内幕へ入ると、じつは、どの人間よりも不幸で、どの人間よりも貧乏なのであった。
この情報を『社交室』にもたらしたのはワニ君で、その噂の出どころは、昨日《きのう》の夕方このホテルへやって来たイヴォンヌさんの父親の山田氏だった。
山田氏はホテルの食堂で、日ごろ尊敬する石井長六閣下の愛嬢に対する、沼間一族の高慢無礼な仕打ちに腹を立て、義憤のあまり、報酬的に沼間家の裏の事情をワニ君にすっぱぬいた。それくらいの目にあわしてやってもいいと思ったのである。
それと、もう一つは、槇子と猪股氏の婚約成立の報知だった。これは、ホクホクと笑み崩れた猪股氏自身の口から披露された。
この二つの情報をつづくり合せると、沼間夫人がどういう目的でこのホテルへやって来たか誰にもすぐ了解された。銀行の金庫を補填するために、二人の娘をここへ競売《オークション》に来たのである。
この報知をきいて、最も打撃を受けたのは越智氏だ。系図と伊達《ダンデスム》を売り物にして、纒まった持参金にありつこうと日夜骨を折った甲斐もなく、その相手は空《から》手形だった。
ワニ君が、慰め顔にいった。
「越智氏、まア、そんなに嘆くな。見損ったのは君ばかりじゃない。ひとの分まで落胆してくれなくてもいいよ」
ポン君が、いった。
「それにしても、いい商売をしやがったな。いったい、四十万だろうか、五十万だろうか」
……社交室のピアノのうしろでキャラコさんがきいたのは、大体このようなことだった。
キャラコさんが入ってきた時には、この部屋には誰もいなかった。キャラコさんは冗談に、『休憩室』と呼んでいるピアノのうしろの狭い三角形の隙間へはいり込んで、いつものように『コロンバ』のつづきを読んでいると、ワニ君の一団がドヤドヤと飛び込んで来て、いきなり話をはじめたので、いまさら出ることもできず、息をひそめて竦《すく》んでいるほかはなかった。
沼間家が一文なしになったことも、沼間夫人の遠謀も、猪股氏と槇子の婚約も、みな、意外なことばかりだったが、そうとなると、叔母が、なぜ自分を無理にこんなホテルへ誘って来たか、その目的がはじめてはっきりと了解できた。この競売《オークション》を一層効果的にするために、時局|柄《がら》、光栄ある石井長六閣下の愛嬢を、近親として手元にひきつけておく必要があったのだ。
キャラコさんはまだ一度も槇子たちの身分をうらやんだことはない。反対に、不幸だとさえ思っていたが、その不幸は、キャラコさんが考えていたよりも、もっとひどいものだった。
しかし、槇子のほうは、愛情より真実より金の方が大切な娘なのだから、こういう身売りを格別不幸だとも思っていまい。
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