新聞を読んでいた。
 キャラコさんが入っていっても、誰ひとり口をきかない。ひどい目にあいましたね、と、ひとこというものもない。みな顔をそむけて知らん顔をしている。沼間夫人が、つい今までみなに自分の悪口をいっていたのだとすぐ気がついたが、そんな女々《めめ》しい想像をしないのが自分の値打ちだと思って、気にしないことにした。
 イヴォンヌさんが、気の毒そうにそばへ寄ってきて、
「熱かって?」
 と、ささやいた。
 キャラコさんは、笑いながら、そっとイヴォンヌさんの手を握って感謝の意を伝えた。
 キャラコさんが、イヴォンヌさんに、いった。
「この部屋に手相|見《み》の名人がいるのよ。あなた、そういうことに興味がおありになって」
 イヴォンヌさんは、面白がって、
「みなさん、この部屋の中に世界一の手相見の名人がいるんです。みなさん、ご存知?」
 と、大きな声で披露した。そして、キャラコさんのほうへふりかえって、
「どなたが、そうなの」
 キャラコさんは『恋人』の方をさししめしながら、
「あそこにいる、あの、山本さんて方」
 イヴォンヌさんは、すぐ『恋人』のそばへ飛んで行って、
「あなた、世界一の手相見ですって、本当?」
『恋人』は静かにこたえた。
「先生がまだ生きていますから、私は世界で二番目です」
 イヴォンヌさんは手を打ちあわして、
「あら、そうなら、そんなところにひっ込んでいないで、こっちへ出て来てちょうだい。見ていただきたいひとがたくさんいますわ」
 といって『恋人』の手をとって社交室の真ん中へ連れ出した。
『恋人』はいつものようなおどおどしたようすはすこしもなく、手をひかれながら部屋の真ん中まで出てくると、はっきりした声でいった。
「どなたでも、どうぞ。……お望みなら、お亡くなりになる年月日まで申しあげましょう」
『社交室』の一同はゾックリしたように、互いにチラチラと眼を見合わせた。山本氏の声の調子の中になにか、そんなふうな、ひとを竦《すく》みあがらせるようなものがあった。
 みな尻込みして、私、といい出るものもない。
 キャラコさんが、進み出た。
「わたしをみてください」
 キャラコさんと山本氏を真ん中にいれて、一同がそのまわりに輪をつくったとき、槇子が蒼い顔をしてはいって来た。
「いったい、何がはじまろうってえの」
 まるで女王さまからご下問でも受けたように、四方八方から異口同音にこたえる。
「世界一の手相見が、これからキャラコさんの未来を占うところなんです」
 マキ子は舌打ちをして、
「ちえッ、くだらねえ。……そんなところにいないで、みンな、こっちへ来いよう」
 しかし、誰も輪を離れてゆくものがない。
 山本氏はキャラコさんの掌《て》を眺めていたが、何か異常な発見でもしたように、おお、と低い感嘆の声をもらし、キラキラ光る眼で一同の顔を見廻したのち、低い声で語りだした。
「これは、実に非凡な手です。何十万のうちに、稀《まれ》にたった一つこのような手に出っくわす。……順序よく申します。まず、だいいちに、この方《かた》はたいへんに勇敢な気性だ」
 越智氏が、馬鹿にしたような口調でいった。
「みな尻込みしているうちに、最っ先に出てゆくんだから、そりゃア勇気があるほうでしょうな」
 みな、どっと笑いだす。
 山本氏は耳もかさずに、
「あなたは非常に健康で、これは、晩年までつづきます。聡明で沈着で、たいへんに忍耐強い」
 ワニ君が口を出す。
「それは、僕も認めます」
 シッ、シッ、という声が起こる。
「……卑猥《ひわい》にも不潔にもなじむことがない。あなたは生まれてからまだ一度も嘘をいったことがない。あなたは、この世で最も堅実で道義心の強いどの男性よりも、もっと堅実で道徳的です。実に稀な手ですね。……それから、この線! なんでもないこのちっぽけな皺の中に、わたくしは異例な運命を発見しました。この線を見ると、あなたにはたいへんな幸運と、一口《ひとくち》にいえないほどの莫大な財産が備わっていることがわかる」
 みな、わあッと笑い出す。なかでも、槇子の嘲笑がひときわ高くひびいた。
 山本氏は憫《あわれ》むような眼ざしで一同を眺めまわたしながら、
「その財産をいま持っていられるとはいっていません。しかし、わたくしは誓って申します。思いもかけぬような事情によって、このお嬢さんがその幸運をうけるのです。……みなさんはお笑いになるが、ご自分たちの未来について何を知っているというのです。自分が明日《あす》死ぬことさえご存知ないくせに。……私の見るところでは、この中に、そういう運命の方《かた》が一人います」
 もう、声を出すものもない。
 槇子が、揺椅子《ロッキング・チェア》から離れて山本氏の前に坐ると、だまって掌を差しだした。
 山本氏はその掌をじ
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