卓の上のナプキンを眺めながら坐っていたが、すこし心配になってきた。
 沼間夫人は、剃り込んだ細い眉の間に立皺《たてじわ》をよせて、いらいらと食堂の入口の方へふりかえりながら、平気な顔で食事を始めている麻耶子《まやこ》に、
「あなた、槇子どこへ行ったか、ほんとに知らないの」
 と、また同じことをたずねる。
 マヤ子は、つんとして、
「いやアね、いくど同じことをきくの。だから、知らないといってるじゃないか」
「じゃ、槇さんといつどこで別れたの」
「伊東のトバ口ンところで。……潮吹岩《しおふきいわ》へ行こうってボクを誘ったけど、ボク、つまんないからいやだと断ってひとりで帰ってきたんだ」
「お連れは、どなたと、どなただったの」
「知らないよ、ボク」
「知らないわけはないでしょう」
「別れるときはひとりだったよ。別れてからのマキの連れなんか、ボク知るものか、千里眼じゃあるまいし」
「じゃ、ひとりだったのね」
 マヤ子は鼻で笑って、
「ふン、どうだか」
「なんです、ちゃんとおっしゃい」
「だから、どうだか、っていってるじゃないか、しつっこい!」
 何をきいても、もう返事をしない。澄ました顔で肉の小間切《こまぎ》れをいくつもつくっている。
 沼間夫人は食堂の電気時計と自分の腕時計をたがいちがいに見くらべながら、
「いやだ……。ほんとうに、なにかあったんじゃないかしら」
 キャラコさんは中腰になって、
「あたし、行って見ましょうか」
 夫人は、白眼をキラリと光らせて、
「行くって、どこへ?」
「そのへんまで」
 氷のような冷たい声で、沼間夫人がいう。
「よしてくださいね。あまり目立つようなことは、あなたにたのまなくても、いくらでも探す方法はあります」
 キャラコさんは素直にあやまる。
「ごめんなさい」
 そこへ、槇子が帰って来た。ひどく赤い顔をしているので、キャラコさんは槇子が風邪でもひいたのかと思った。
 ひょろひょろしながら三人の食卓の方へやってくると、不機嫌な顔で椅子にかけてナプキンをとりあげた。
 沼間夫人は安心と腹立ちがいっしょになったような声で、
「もっと、ちゃんとしてくださいね。いままでどこにいたの」
「傷病兵の慰問に行っていたんです」
 マヤ子は意地の悪い上眼づかいで、ジロジロと槇子の顔を眺めていたが、
「おい、酒くさいぞ」
 と、すっぱぬいた。
「なにおォ」
「つまり、いままで傷病兵と祝盃をあげていたというわけか。ヘッ、こいつァいいや」
 キャラコさんはおかしくなって、思わず、ぷッと噴き出した。
 槇子は、きッとキャラコさんの方へふりむくと、
「おやッ、笑ったナ」
 蒼くなって、眼をすえてキャラコさんをにらみつけていたが、突然、
「生意気だよッ、貧乏人」
 と、叫ぶと、いま、ボーイが置いて行ったばかしの熱いポタアジュのはいった皿を取りあげてキャラコさんの顔へ投げつけた。
 身をかわすひまもなく、皿はまともにキャラコさんの胸にあたって、顎《あご》から胸へかけてどっぷりとポタアジュを浴びてしまった。青豆のはいったどろどろのポタアジュが、衿《えり》から胸の中へ流れ込んで、飛びあがるほど熱いのを、そっと奥歯をかんでこらえた。
 広い食堂の中には、まだ六、七組の客が残っていて、あっけにとられたような顔でこちらを眺めている。
 キャラコさんは、長六閣下に、小さなことに見苦しく動ずるなと教えられている。キャラコさんにとってこれは大切な服だけれど、すぐホテルのランドリイへ出せばそんなにひどくなるはずはないし、もともと自分が笑ったのがいけないんだから、と、すぐ考えついて、素直に槇子にあやまった。
「マキちゃん、ごめんなさい。あたしが笑ったのが悪かったの」
 槇子はそっぽを向いて返事もしない。麻耶子は痛快そうに、眼の隅からジロジロとキャラコさんの顔を眺め、沼間夫人は眉も動かさずに、ご自慢の白い手で静かにスプーンを使っている。
 キャラコさんは、早く洗濯屋《ランドリイ》へ駆けつけたいのだが、中座していいものかどうかと迷っていると、いつの間にかうしろに秋作氏が来ていて、腕をとって椅子から立たしてくれた。
 槇子はそれを見ると、いまにも痙攣《ひきつ》けそうな物凄い顔になって、
「秋作、馬鹿ッ、馬鹿ッ」
 と、叫びながら、二人を目がけて手当りまかせに食卓の上のものを投げつけ、投げるものがなくなると、こんどは自分の服をピリピリとひき裂き始めた。
「みんなで、あたしひとりをいじめるッ。……よゥし、死んでやる、死んでやるから」
 二人が食堂を出てしばらく行ってからも、キンキンと槇子の声がひびいていた。
 服を着換えて社交室へおりてゆくと、社交室にはワニ君の一団と沼間夫人と越智氏と猪股《いのまた》氏がいる入口に近いいつもの椅子で、『キャラコさんの恋人』が静かに
前へ 次へ
全16ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング