ダーン・タイプはきらいです。……もしか、あなたは、小学唱歌の『冬の円居《まどい》』というのをご存じでしょうか」
 長六閣下が知っている唱歌というのは『冬の円居』と『黄海の海戦』の二つだけなので、キャラコさんは子守唄のかわりに『冬の円居』を聴いて育ったようなものだった。
「ええ、知っていますわ」
『恋人』は眼を輝かせて、
「やっぱり!……あなたなら、きっと知っていらっしゃるだろうと思った。……では、どうぞ唄ってきかせてください」
 キャラコさんは『恋人』の手をひいてピアノのそばへすわらせ、自分が伴奏を弾きながら美しい声で『冬の円居』を唄いだした。
『恋人』は両手で顔をおおって熱心にきいていたが、キャラコさんが唄い終ると、顔をあげて低い声でつぶやいた。
「なつかしい唄だ!」
 しなびた頬に血の色がさし、青年のような生き生きとした顔つきになっていた。『恋人』は、丁寧に頭をさげて、
「これで満足です。どうも、ありがとう。……もうご勉強のお邪魔をいたしますまい。……それはそうと、あなたはまだずっとこのホテルにおいでですか」
 キャラコさんは、あわてて首をふる。
「いいえ、もう四五日で帰ります。……こんなところにいるより、家《うち》にいるほうがずっと楽しいわ。ホテル住まいだの、贅沢な暮らしなんか、あたしの趣味ではありませんの」
『恋人』は、妙な眼つきでキャラコさんをみつめながら、
「ほう、どんなのが、あなたの趣味?」
「さあ、どういったらいいかしら、……うまくいえませんけど普通の、きちんとした生活では、同じ時間に、同じことをしますわね。古い、同じ友達にあったり……」
「それは、どういう意味です。……よくわかりませんが……」
「困ったわね……」
 キャラコさんは、かんがえながら、綿密に話す。
「あたし、じぶんの家ではこんなふうにやっていますの。……きちんとした時間割をつくって、その中でお仕事をしたり、考えたり、本を読んだり。……それから、きまった日に仲のいいわずかばかりのお友達と訪ねあったり……。ところが、ここへ来てからは何もかもすっかり変ってしまいました。ここでは、ひとりで散歩をしたり、自分だけの考えにふけったりしてはいけないんです。編物をすることも、本を読むことも、あまり大きな声で笑うこともできないの。……何もせずに、膝に手を置いて、こんな顔をしてほほえんでいなくてはなりませんの。……それも、あまりそんな顔をばかりしていると馬鹿だと思われるから、時々、何か気のきいたことをいわなくてはならないことになっていますの。……ずいぶん、たいへんでしょう? あなた、これについて、どうお考えになって?……すくなくとも、あまり楽でないことだけはおわかりになるでしょう?」
『恋人』は、いくどもうなずいてから、だしぬけに質問した。
「あなたは、結婚についてどんな考えを持っていられますか。結婚なさりたいですか」
 キャラコさんは、顔を輝かせて、
「ええ、結婚したいわ。……なぜって、あたし、子供がだいすきなんですもの。立派な子供を産むのがあたしの理想なのよ」
 窓の外で、剛子《つよこ》、と呼ぶ声がする。沼間《ぬま》夫人だ。沼間夫人は社交室に『キャラコさんの恋人』がいるので、嫌がってはいってこないのだ。
 キャラコさんはあわてて出ていった。
 窓のそとで、沼間夫人が、キャラコさんが槇子たちのお伴をして行かなかったことと、汚いやつと話していることをくどくどと叱りつけている。小さな声でいっているつもりなのだろうが、沼間夫人の声は甲声《かんごえ》だから、つつぬけに社交室までとどくのである。
 キャラコさんがもどって来ると、『恋人』が、いった。
「叱られましたね」
 キャラコさんは、首をふって、
「いいえ、叔母はあたしを叱ったりしませんわ。たいへん親切よ」
『恋人』は、底意地の悪い笑い方をしながら、
「ほほう」
 キャラコさんは、優しく抗議する。
「なぜ、ほほう、なんておっしゃるの。叔母はすこし口やかましいけど、でも、嫁入りざかりの娘が三人もいたら、優しくばかりはしていられませんわ」
「なるほど。……何だか、わたくしの話も出たようでしたね」
 キャラコさんが、正直にいう。
「じぶんの名を隠しているようなひとと親しくしてはいけないと、いいましたの」
『恋人』はうつむいていたが、急に顔をあげると、ぶっきら棒な口調で、いった。
「そんなことなら、わけはない。……叔母さんに、わたくしは山本というものだといって下さい」
「ご商売は?」
『恋人』は、考えてから、陰気な声でこたえた。
「手相術師《パルミスト》……、手相を見ます」

     五
 次の日、晩餐《ディナー》の時間になっても、槇子《まきこ》がなかなか帰って来ない。時計は、もう、七時をうちかけている。
 キャラコさんは、食
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