らいをした。秋作氏は、親類でも奥さんでもないお嬢さんに、すっかり払わせて、このホテルに滞在しているのである。

     四
 たった一人きりになると、キャラコさんは走るようにピアノのそばへゆき、鍵盤に指を触れるが早いか、自分の弾く曲に夢中になってしまった。
 正式に先生についたことはないが、ピアノは自己流でかなり達者に弾き、よく響く中音《メディアム》で上手に唄う。たいていありふれた平俗な曲がおもだが、時には即興で出まかせに唄うこともある。しかし、そのつまらぬ曲もキャラコさんがうたうと、まるで趣きのちがった味の深いものになってしまう。
 大勢の前で唄ったことなど一度もないので、誰もそんなことは知らない。キャラコさん自身もてんで気がついていない。
 ただ、長六閣下だけは、ぼんやりとその才能に感づいて、
「お前の唄には、なにか精神のごたるもんがある」
 と、批評した。
 ただの一度も音楽家になろうなどと考えたこともなければ、ひとに聴かしてほめられたいなどと考えたこともない。キャラコさんの場合、唱歌は一種の迸出作用で、小鳥における囀《さえずり》のようなものだといえよう。
 三時ごろに、給仕が新聞をとりに入ってきただけで、ここのキャラコさんは完全に孤独だった。キャラコさんは誰に聴かれることなく、たれに妨げられることもなしに、知っているだけの唄をみな唄った。

 自分の家へ帰ったような気がして夢中になって唄いつづけているうちに、ふと、うしろで人のけはいがするので振りかえってみると、入口に近い椅子に『キャラコさんの恋人』が遠慮深く掛けていた。
 今日はいつもより顔の色が悪く、レース編みのきたない襟飾《ネクタイ》を紐のように顎《あご》の下へたらし、何を詰め込んだのか、すり切れた上着のポケットを、みっともなく膨《ふく》らましている。
 キャラコさんがうしろをふり向いたのを見ると、『恋人』は悲しげに見えるほどな慇懃《いんぎん》な顔つきで、
「こんな汚いやつが、ここにいては、お目ざわりでしょうか」
 といった。
 あまり、『恋人』のようすが気の毒なので、キャラコさんは胸がいっぱいになってきて、ピアノから離れて、『恋人』のそばへいってすわった。
「あら、どうしてでしょう。あたし、あなたを汚いなどと思ったことありませんことよ。また、ダームでもして遊びましょうか。……もし、おいやでなかったら」
『恋人』は手の甲のうえへ垂れさがってくる長すぎる袖を、しょっちゅう気にしてたくしあげながら、
「……わたくしを、汚いやつだの、乞食だのといわないのは、ほんとうにあなただけです。わたくしは、いやしめられることには馴れていますから、なんといわれたって格別気にも止めません。しかし、あなたのご親切は……」
 急に眼を伏せて、口ごもり、
「ありがたく思っています。……生涯、忘れませんでしょう」
 といって、すこしうるんだ、感謝にみちた眼差しでキャラコさんをみつめた。
 キャラコさんは、こんなふうに丁寧な挨拶をされたので、すっかり面くらって、
「あら、あんなことが親切なんでしょうか。……おはよう、ってご挨拶をしたり、二度ばかりダームをしただけでしょう」
「それが親切なのです。……とりわけ、わたくしのようなものにしてくださるときは」
 キャラコさんが、笑いだす。
「そんなのが親切なら、いつでも!」
『恋人』は、しばらく沈黙したのち、とつぜん、こんなことをいう。
「ご親切にあまえるようですが、ひとつ、おねがいがあります」
 キャラコさんはすこしかんがえてから、キッと口を結んで決意のほどを示しながら、強くうなずいた。
「あたしにできることでしたら、どんな事でも!」
 キャラコさんのひどくきまじめな顔を見ると、『恋人』は皮肉とも見える微笑をうかべながら、
「いや、そんなむずかしいことではありません。……わたくしに歌を唄ってきかせていただきたいのです」
「あら、そんなことでしたの。……でも、あたし、まずいのよ。まだ、いちども本式に習ったことがないんですから。……自己流のでたらめなの」
『恋人』は、首をふって、
「どうして!……いま、あそこでうかがっていましたが、あなたのような見事な中音《メディアム》は、日本ではそうざらに聴けるものではありません。……最初は、自分の耳が信じられなかったくらいでした」
 キャラコさんは、自分の唄がひとにほめられたことなどはいちどもなかったので、真赤になってしまった。
「おやおや、たいへんだ」
『恋人』は強くうなずいて、
「いえ、ほんとうのことです。実際、めずらしい声をもっていられる」
「では、唄いますわ。その、見事な『中音《メディアム》』で! ……でも、あたしの知っている歌でなくては困るのよ。……どんな歌? ごく新しいタイプの歌?」
「いや、わたくしはモ
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