キャラコさんは、ためいきをつきながら、そっと呟く。
「マキちゃんは、貧乏では一日も暮らせないひとなんだから、いちがいに責めるわけにはゆかないわ。そんなふうにばかり育てられてきたのだから。……あたしとは、わけがちがう」
 戸外《そと》で騒がしい声がするので、キャラコさんは、ふと、われにかえった。
 五六人のひとが、きれぎれに叫びながら、海岸の方へ駆けてゆく。ワニ君たちは窓から首をつき出して、駆けてゆくひとになにか問いかけていたが、すぐ、
「大変だ、大変だ」
 と、わめきながら、あと先になって社交室から飛び出していってしまった。
 キャラコさんは庭へ出て、海岸へおりる石段の上まで行って見たが、波打ち際で走り廻っている大勢のひとの姿が見えるばかりで、何がおこったのかわからない。
 石段を駆け降りて、ギッシリと浜辺に立ちならんでいる人垣のうしろまで行くと、その向うから、何かききとりにくいことを、繰りかえし繰りかえし叫んでいる甲《かん》高い女の叫び声がきこえてきた。叔母の声だ。
 すぐ前に、アシ君が蒼くなって、眼をすえて海のほうを睨んでいる。
 キャラコさんがしっかりした声でたずねる。
「葦田《あしだ》さん、なにがあったの」
 アシ君は、ふりかえると、肩越しに、喰ってかかるような口調でこたえた。
「マキちゃんが、潮吹岩《しおふきいわ》までボートで行って見せるってがんばるんだ。いくらとめても、どうしてもきかないで、とうとうひとりで行っちゃったんだって」
 キャラコさんは、のび上って沖のほうを見たが、ボートらしいものも見えない。
「ボートなんか、どこにも、見えないわ」
「馬鹿ァ、ボートがでんぐりかえって、溺れかけてるんだア」
 午《ひる》すぎに、ちょっとさしかけた薄陽は、また雨雲にとざされ、墨色の荒天の下に、冬の海が白い浪の穂を散らして逆《さか》巻いている。見上げるような高い波が、折り重なって岸へ押しよせては、大砲のような音をたてて崩れ落ちる。
 五町ほど沖合に、芥子《けし》の花のような薄赤い色が浮き沈みしている。波にゆりあげられてチラと見えたと思うと、すぐ次の波のしたに沈んでしまうのだった。
 もう、何も見る気がしなかった。あの美しい槇子が自分のすぐ眼の前で死んでゆく。
「マキちゃん、……ああ、どうしよう、マキちゃん」
 自分でも、何をいっているのかわからなかった。
 キャラコさんは、槇子の意地悪も我儘もみな忘れてしまった。
「どうか、助かってちょうだい」
 この瞬間、キャラコさんは、父よりも、母よりも、兄弟よりも、槇子の方が好きだったような気がした。
 人々は、埓もなく、
「早く、舟を出せ」
「ホテルのモーター・ボートはどうした」
 などと叫びながら、ウロウロと渚を走り廻るばかりで、とっさに、どうしようかんがえも浮んで来ないのだった。
 なにしろ、一月のことだから、ホテルのモーター・ボートは格納庫の中に納《しま》われていて、ちょっとやそっとで引きだすわけにはゆかない。この上は漁船を出すよりほかはないので、ホテルの庭番《にわばん》がそっちへ駈けだしていったが、ここからいちばん近い漁師の家まで約十五町もある。
 人垣の向うで、何か劇《はげ》しくいいあう声がするので、キャラコさんがそのほうをふり返って見ると、『恋人』が、いま大急ぎで服を脱ごうとしているところだった。ガヤガヤはそれを必死に押し止めようとする人々の声だった。
 この荒れ狂う海の中へ、このよぼけた老人が躍り込もうというのは、たしかに、正気の沙汰ではなかった。
 息をつめているうちに、『恋人』は素早く服をかなぐり捨て、ひきとめる人々の手をふり切って飛沫《しぶき》をあげて海の中へ躍り込んだが、最初の高波が、『恋人』を岸へ叩きつけてしまった。
 岸に立ちならんでいる人々の口から、一斉に、
「ああ」
 と、叫びとも呻きともつかぬ声がもれた。
 キャラコさんは、思わず両手で顔を蔽ってしまった。
 すぐ耳のそばで、
「ああ、頭を出した、頭を出した」
 と、いう声がする。
 顔をあげて見ると、波にうたれて沈んでしまったと思った『恋人』が、波の下をくぐりくぐり、沈着なようすで沖のほうへ泳いでゆく。
『恋人』の体は、たちまち押し上げられ、押し沈められ、また浮き上がる。揉み立てられ、揺すられ、薙《な》ぎ倒されながら瘠せさらばえた初老のひとが、二十代の青年のような精力と不撓《ふとう》の努力でジリジリと槇子の方へ迫ってゆく。自然の暴威と格闘する最も果敢な人間の姿だった。
 しかし、槇子の浮き沈みしているところはまだ遠かった。『恋人』のいるところからまだ三、四町も沖合だった。
 早く行き着いてくれ。それにしても、無事に行きつけるであろうか。ひとりとして正視するものもない。
「しッかり、たのむぞオ」
 だれ
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング